- 2025/07/05
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あまり知られていない話・ちょっと意外な話・昔の話・最近の話、等々、いろいろな情報を随時掲載していきます。
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つい先日、9月8日のことですが、ちょっと不思議な出来事がありました。
端からすればたいしたことではないのでしょうが、私にとって、それは、科学では
説明のつかないこと…のような気がしてなりませんでした。
はたして、私は、その日の行動予定を変更することにしました。
その日の行動予定とは、社用車で公用外出する道すがら、私用を済ませる
ことでした。
その日は朝からどんよりして、昼近くから雨が降りだしました。
私は、「外出して、用が済むまでは降らないでほしい…」と願っていたのですが、
意に反して、ぽつぽつと雨が落ちてきました。
デスクのPCで気象レーダーを見ると、時間を追うごとにますます降ってきそうな
気配です。
公用はもとより、私用のほうは、できればお昼前後、最悪でも日没までには
済ませたいと考えていました。
「あぁ、ヤバいな、これ以上降ってこないうちに出かけるとするか…」
私はそう思って、オフィスの女性に外出する旨を伝え、社用車の鍵が掛かって
いるボードに目を遣りました。
「あれっ!? 鍵がない…」
そのボードに鍵が掛かっていれば、目的の社用車は出払っていない…ということ
なのです。
私は、つい今しがた、いつも利用する社用車が駐車場に置かれているのを視認
してきたばかりでした。
私 「お~い、誰か社用車の鍵をポケットにしまってないか?」
はたして、誰も鍵の戻し忘れはないようでした。
今の勤務に替わってから1年半経ちましたが、こんな、クルマの鍵が行方不明に
なるなんてことは一度もありませんでした。
そうしたら、
社員 「あっ、もしかしたら、今朝夜勤明けであがったTさんが犯人かも…。
ゆうべ、その車を使ったそうです」
私 「おい、誰かTに電話して確認してくれ」
しかし、Tさんは、夜勤明けはパチンコ屋に寄ってから帰ることが多々あり、案の
定、何度コールしても繋がりませんでした。
私 「しょうがねえな…、ほかの社用車出すか…、いや、待てよ…銀行にも寄ら
なきゃならないしな。あそこのパーキングは狭いし、ぶつけてもぶつけられてもイヤ
だしな…」
思案がてら、外に出てみると、雨はさきほどより強くなってきていました。
私は、煙を吐きながら、「もしや…」と思いました。
そして、声には出さず、「そうか…、無理してまでこなくていいよ…、ってことか?
わかったよ…」 そう思いました。
そうして、今度は「じゃ、また来年…な…」 そう、小さく呟きました。
私は、出掛けるのを中止して、通常業務に戻りました。
私の仕事は主にデスクワークで、会社のさまざまなデータを纏めて上層部へ
提出したり、少額現金の出納を担当しているのです。
「こんなことは、初めてだな…。夜はヤバいというから昼間出かける途中に寄ろう
と思ったんだがなぁ」
私は、ぶつぶつ言いながら、昔のことを思い出してみました。
ただ、あらためて昔のことを思い出そうとしても、数十年の間に、さまざまな記憶は
曖昧になり、風化し始めていました。
昭和45年前後の話ですが、私が小学5年生~6年生の頃の放課後の遊びと
いったら、空き地での石蹴り、缶蹴り、メンコ、ベーゴマ、鬼ごっこ、かくれんぼ、
などなど、今のご時世からは想像もつかないような放課後を過ごしていたものです。
ただ、日曜日に限っては、私は放課後の遊び仲間と離れて、別の仲間と近くの
河川までハゼ釣りをしに行ったり、家の近くの堰や沼にマブナを釣りに行きました。
今あらためて思い返してみると、子供ながらも、遊びの目的ごとに少しずつメンバー
が違っていました。
たしか…、小学6年の夏休みだったと思いますが、ベーゴマ仲間のひとりH君から
こんなことを言われました。
H君 「あした、卓球をしに行ってみないか? 面白いよ。あと、A君とU君も来る
ってさ…」
小学6年生の私は、卓球とは何か?を知りませんでした…。
私 「卓球って、何の遊びだい?」
H君 「遊びじゃないよ…、ピンポンのことだよ…」
私はピンポンという言葉は知っていました。というか、ピンポン玉を知っていました。
以前、誰かがポケットからピンポン玉を取り出し、水飲み場の弱い噴水の上で
ピンポン玉がくるくると回るのを見せてくれたことがあったからです。
ただ、ピンポン玉が球技用のタマだとは知りませんでした。
私は、卓球にしろ、ピンポンにしろ、どういうものなのかよく知りもせずに、
「へぇ~、ピンポンかぁ? おもしろそうだなぁ、でも…、どこまで行くんだい?」
と、念のためH君に訊ねてみました。
昭和44年にはちょっとした伝書鳩ブームがあり、私も番い(つがい)の鳩を飼って
いました。
ある日のこと、H君が、『S君の親戚のおじさんが、伝書鳩をくれるんだって。これ
から行ってみよう』と言い出し、それから延々往復10キロ近くも歩くハメになったの
を思い出して、H君にそう聞いてみたのです。
当時の私たちは、高学年とはいえ、まだ自転車に乗ることを禁じられていました。
つまり、どこへ行くにしても、すべて徒歩だったのです。
H君 「ほら、A君の家のすぐ近くに 訓練所 があるだろ? そこに卓球台が
あるんだよ」
A君の家は、私の家からは1キロちょっと、小学校からは500mくらいのところに
ありました。A君の家にはよく遊びに行っていたし、近くに訓練所があることも知っ
ていました。
ちなみに訓練所とは、今でいうところの高等技術専門校のことであり、小学生の
私たちは安直に訓練所と呼んでいました。
ただ、小学生の目線からすると、ずいぶんと広大な敷地に、あまり整備されてい
ない赤土のグラウンドがあり、何かしらの重機があちこちに無造作に置かれていて
私は、ここはいったい何をするところなのだろう?と常々思っていました。
校舎は小学校のように開放的ではなく、むやみに部外者(よそもの)を侵入させ
るものかといわんばかりに、屹然と聳えて見えたものでした。
私 「訓練所って、中に入っても怒られないのかい?」
H君 「ああ、U君の知り合いのお兄さんが一緒なら怒られないみたい…、あと、
ちゃんとした打ち方も教えてくれるんだって…」
私 「へ~、打つのかぁ…」
H君 「大汗をかくらしいから、手ぬぐいを持っていったほうがいいかもよ」
そうして翌日、私はH君と一緒にまずはA君の家に寄り、それから3人で訓練所
に向かいました。
その日、訓練所の敷地の中にほとんど人の姿はありませんでした。
それは校舎も同じで、みんなどこへ行っちゃったんだろう?と思うくらい誰もいませ
んでした。
私たち3人は校舎には入らず、中庭の通路を抜けていちばん端の一角に行きま
した。
そこは、外の通路からも出入りができる大きな倉庫のような部屋でした。
U君は先に来ていて、誰か見たこともない人と小刻みにボールを打ち合っていま
した。
「へ~、これが卓球かぁ…」
私は、卓球という球技を初めて見たような気がしました。というのも、その当時は
卓球大会のテレビ中継などなかったからです。
おおよそスポーツでテレビ中継があったのは、野球・相撲・マラソン、あとはプロレス
くらいなものでした。
はたして、私は、ラケットの持ち方から教わり、卓球ではなく “ピン・ポン” のレベル
から始めたのです。
卓球という球技は、端から見ていると簡単そうですが、いざ卓球台の前に立って
みると、なかなか思ったとおりにボールが打てませんでした。
でも、それから何度か同じように訓練所に遊びに行くうち、いっぱしフォア打ちが
出来るようになってくると、幼少ながら私は卓球というものが面白くて面白くて
たまらなくなりました。
そんな布石があって、私は中学にあがると、何の迷いもなく卓球部に入りました。
それは、遊び仲間のH君、A君、そしてU君も同じでした。
ちなみに、U君とは卓球だけのつきあい、A君とは釣り仲間でした。
H君は通っていた小学校のすぐ裏手に家があって、H君の家にはほとんど遊びに
行くことはなく、その代わり小学校の校庭で遊ぶことのほうが多かったのです。
田舎だったせいか、当時の小学校はいつでも自由に校庭で遊ぶことができました。
しかし、中学にあがってからは、みんなめっきり小学校の校庭で遊ぶ機会が減った
ように思います。
というのも、放課後はみんなそれぞれ部活に精を出していたものですから、帰りは
いつも暗くなる頃だったからでしょう。
私の通った中学校の卓球部は、顧問に恵まれなかったからなのか人材がなかっ
たからなのか、いっぱし大会には出場するものの、たいてい1回戦負けで、だれか
れとなく「出ると負けの卓球部」と言われていました。
たしかに、卓球部の顧問は、卓球のたの字もやったことのない数学の教師が受
け持っていたし、先輩たちもいつも全員顔ぶれがそろっているわけではありません
でした。
つまり、卓球部の技術レベルは推して知るべしでしたが、基礎体力づくりに関し
てはどこからノウハウを受け継いできたのか、かなりハードなものでした。
私たち新入部員は、まず体育館の中を10周ランニングしてから、個々に腹筋・
背筋・腕立て伏せなどをこなしました。
うろ覚えですが、腕立て伏せは50回、背筋は30回、腹筋は100回くらいだっ
たと思います。
その当時、スポーツ理論のようなものが確立していたかどうかは不明ですが、
野球部の “ケツバット” が当たり前の時代、日課の腹筋運動は、“膝をたて
ずに両足を伸ばしたまま” でやることになっていました。
腕立て伏せにしろ腹筋にしろ、最初のうちはかなりハードでしたが、慣れてくる
と存外「へのかっぱ」で、むしろまだまだ鍛え方が足りないと感じていました。
ちなみに、最盛期は、腕立て伏せ100回、背筋は50回、腹筋はとびぬけて
1000回はできました。
さて、そういった基礎トレーニングが終わると、今度はラケットを持って素振り
1000回、それからフットワークしながらシャドウ打ちもしました。
ただ、意地の悪い先輩がいるときは、インターバルやらうさぎ跳びをやらされ
ることがあり、それはさすがにきついなと感じたものです。
そのうち、ラケットを持っての素振りでは飽き足らず、1キロとか5キロの鉄アレイ
をラケット代わりに素振りをしたり、鉄下駄を履いて走ったりもしました。
今にして思えば、たぶんに、当時放映されていた「柔道一直線」に感化されて
いたのだろうと思います。
まあ、それだけ身体(筋力)を鍛えていたこともあり、私は先輩たちより速い
スマッシュを打てるようになりました。
そんな体(てい)で、毎日毎日身体を鍛えていたわけですが、それでもなお
内心 「もっともっと鍛えなきゃダメだ…」 という気持ちがあって、実は中学1年
のあいだ、ほぼ毎日のように家に帰ってからもトレーニングをしていました。
そのトレーニングとは、母校の小学校のグランドで何周も走りこみをしたり、
芝生で腹筋やら腕立て伏せをすることでした。
私は、部活が終わる頃、H君に「今日、やるか?」と訊ね、H君が「うん、
やろう」と答えたときは夜のトレーニングに行きました。
さすがに、一人っきりでは誰もいない夜のグランドに行く気にはなれませんで
したが、H君が一緒なら怖くないと思ったのです。
何度かA君とU君にも声をかけましたが、二人とも賛同する気はないよう
でした。
部活から自宅に帰って、夕食を済ませてから、夜の7時過ぎくらいに、自転車で
2分~3分のところにある小学校の裏門から校庭に入り、トレーニング開始です。
H君の家は裏門から歩いて1分なので、先に来ていたり、あとから来ることもありま
した。
二人とも何か話すわけでもなく、ただ黙って校庭のトラックを何周も疾走したり、
途中インターバルの真似事をしたり、とにかく一汗かくまで何らかのトレーニングを
続けました。
そして、大抵は校舎の大時計を見て時刻を確認し、9時前には解散しました。
夜の校庭には、はっきり言って誰もおらず、また、不思議なことに宿直の先生に
一度も見つかったことはありませんでした。
今にして思うと、なぜ夜が来るたびに、しかもわざわざ小学校のグランドまで行って
トレーニングなどしていたものか、自分自身不思議でなりません。
また、H君にしても、なぜか一言も文句を言わずに私の無謀なトレーニングにつき
あってくれていました…。
とにかく、中学1年の頃は勉強はそっちのけで、ほぼ毎晩そんな無謀なトレーニング
を続け、気力も体力も充実した日々でした。
しかし、中学2年になって、しばらく経ったある日を境に、そんな生活が一変しました。
どういういきさつかは知りませんでしたが、県大会で準優勝したことのあるOBのYさん
が私たちに卓球を教えにきてくれることになったのです。
Yさんは二十代後半くらいで、いつもGパンに赤いTシャツ姿でした。
私たちはいっちょまえに卓球シューズを履いていましたが、Yさんはいつも来客用の
スリッパか裸足でした。それでもなお、Yさんはフル装備の私たちより数段速いフット
ワークでした。
Yさんは、上半身の動きも速く、中国の李富栄選手のような前陣速攻型の卓球
でした。
Yさんの前陣速攻型の卓球は、私の目指すところであり、正しい打ち方やサーブ
・レシーブの方法についていろいろ教わりました。
はたして私は、スマッシュのスピードをさらに上げ、ドライヴも打てるようになりました。
しかし、私は、カットサーブに対する「ツッツキ」がことのほか苦手でした。なので、
攻撃する以前に自滅してしまうことが多かったのです。
Yさんから個別に「ツッツキ」の方法論を教わり、自分なりに練習を積んでも、どうにも
上達できませんでした。
片や、U君は、Yさんに教わるようになってからずば抜けて上達しました。
U君は、もともとひ弱な感じのするタイプで、私やH君のように身体を鍛えるでも
なし、スマッシュや強打にしても球威のないボールしか打てませんでした。
それは、訓練所で遊んでいた頃からずっとそうであり、私は内心「U君にだけは負
けるはずがない」と思っていたのです。
しかし、ある日のこと、部活の最中に、みんなで練習試合をしようということになり、
私はU君と対戦しました。
しかし、その時私の前にいたのは訓練所時代のU君ではありませんでした。
サーブにしろ、レシーブにしろ、U君はほとんどミスをしなくなっていました。どんなに
切れているサーブを打っても確実にツッツキで返してきました。
そして、なぜか先制攻撃してこないのです。つまり、守備を固めながら相手のミス
を待っている、そういうタイプの卓球でした。
おそらく、それはすべて指導者Yさんの戦法なのだろうと思いました。
球威のないスマッシュで攻撃するより、確実にレシーブして相手のミスを誘う、
まるで野球の「打たせて捕る」だと思いました。
さらに、U君はフットワークの練習をかなり積んだらしく、とにかく速い動きをしま
した。
それゆえ、スマッシュを打ち込んでもコースを読まれているので、か弱いボールが
返ってきます。
自信をもって打ち込んだ球が戻ってくるというショックと、それに対する次の態勢
が間に合わず、今度は私がミスをする番でした。
はたして、私はU君に惨敗しました。
そして、内心「あぁ、これはもう、追いつけないくらい先に行かれてる…」そう思い
知らされたのです。
その後私は、「でも自分にはスマッシュという武器がある。ツッツキさえ上達すれ
ばもっと強くなれるはずだ…」とは思うものの、依然としてツッツキは苦手なままで、
少しずつ自信を失くしていきました。
そしてさらに、それからしばらくして、どうにも納得のいかない事態が起きたのです。
我らが卓球部が、郡大会だか、何か大きい試合に参加できることになり、
ろくでなし顧問がこんなことを言い出したのです。
顧問 「団体戦は(どのみち)勝てないだろうなぁ。ただ、今の実力からして、
U君なら個人戦で行けるかもしれない。私からYさんに頼んで、しばらくはU君に
だけマン・ツー・マンの指導を頼むことにするから」
子供ながらも、さすがにこれには腹が立ちました。名目だけの顧問が、しかも
卓球の何たるかを知らない者が言い出しただけに余計に腹が立ったのです。
それは…、そう思ったのは私だけではありませんでした。
はたして、それからしばらく経ってから、A君・H君ほか、何人かと連れ立って、
私は卓球部を退部しました。
卓球は楽しいものでしたが、私には、その卓球部そのものがつまらなくなって
しまったからでした。
そうなると、かつての覇気はどこへ行ってしまったのやら、私にしろH君にしろ、
夜のトレーニングどころではなくなってしまいました。
はたして、夜のトレーニングはそれからぱったりとやめてしまいました。
その後、中学3年になると、徐々に進路の問題が頭をもたげてきます。
私は、いっぱし進学するために普通科を目指すことにして、ひととおり勉強のほう
に意識を傾注するようになりました。
一方、進学を望まない就職組志望のA君やH君は、それぞれ農業高校・工業
高校への道に進んで行きました。
中学生ともなれば、小学生の頃のように、放課後無為に集まり無心に遊ぶなん
てことは滅多にありません。
卓球部もやめてしまったし、A君にしろH君にしろクラスも別々となり、徐々に交
流の機会も減って行きました。
それは中学を卒業してからも同じ、というより、それぞれが志望した高校にあがっ
てからはますます顕著になっていきました。
わすが1キロ四方の距離に住んでいるのに、不思議と会うことはありませんでした。
さらに、小学校の頃始めた釣りは高校に入ってからは滅多に行くこともなく、釣り
仲間のA君と会うこともなくなりました。
ちなみに、その後A君は農業高校から北海道の酪農関係の短大へ進学したそう
です。それは風の噂で耳にしただけなのですが…。
また、H君とは中学卒業以来やはり一度も会うこともないまま、これまた噂で、
工業高校を卒業後、大手自動車メーカーの整備工要員として就職した…と聞い
ていました。
ちなみに、私はどうにか進学校の普通科に入学できましたが、1年生のときは存外
「大衆の中の孤独」ともいえる疎外感にさいなまれました。
というのも、クラスの同級生は学区内の各中学校から選抜されてきた精鋭ばかり
で、どいつもこいつも「生き馬の目を抜く」ような雰囲気があって、私はなかなか気
が許せなかったのです。
そのため、1年生のときは授業が終わればさっさと帰宅し、「ぎんざNOW」を観て、
それから5時半を過ぎると原付に乗って、特にあてもなく出かけました。
自宅から10キロ~20キロの間に、ちょうど野山や海岸があって、つまりバイクで走
るには恰好のドライブコースがあったため、私はアタマの中を空っぽにするために
毎日、都合30キロくらいはバイクで走り回りました。
しかし2年からは、クラス(生徒)が文系か理系かで大別され、1年の頃とはかなり
様相が変わりました。
私は、都合文系のクラスを選びましたが、文系志望と理系志望とでは、明らかに
生徒の意識が違う…というか、感性の違いを感じました。
とりわけ、1年のときは、無機質で希薄な個性ばかりが集まったようなクラスだった
のに対し、2年のクラスにはずいぶんと情熱的で個性あふれる生徒がひしめき合っ
ていたように思います。
そのためか、たまたま巡り合わせだったのか、私には、特に気の合う仲間が4人でき
ました。というより、自然と私たち5人が意気投合したのですが…。
ちなみに、もうその頃には、私は大学受験を念頭に置いて休み時間には「でる単」
や「豆単」と睨めっこをして過ごし、放課後は図書室で時間の許す限り何か学習
してから帰宅するようになっていました。
というか、放課後私たち気の合う5人は、三々五々図書室に集まってきては「大
学への数学」やら「現代文ノート」の演習問題などを解いて過ごしたのです。
しかし、私が意気投合した4人は、学業だけでなく遊びの方もまた秀悦でした。
都合、私は高校3年までには仲間から正式な麻雀を教わり、おおよそ週末には
誰かの家に集まって麻雀を打つようになりました。
さらに、ごくたまに日曜日はパチンコ店にも出入りすることもありました。
パチンコといっても、当時のパチンコは電動ハンドルがちらほら、あとは「バネ式の手
打ち」の台がほとんどでした。
すなわち、まだその頃には「ハネモノ」も登場しておらず、パチンコ台といえば「チュー
リップの役モノ」がほとんどでした。
間寛平の「開けチューリップ」が流行ったのがちょうどその頃です。
さて、都合、途中端折りますが、私たち仲間5人のうち3人はそれぞれH大、M大、
K大に現役で合格し、私と残る1人は1浪を決め込みました。
高3に入ってからほぼ1年間、受験受験で心身ともに気が張っていたせいもあり、
我々5人は悲喜交交、春先から夏場にかけて、かなり羽をのばしました。
我々5人は、幸か不幸か、いわゆる軟派ではなくどちらかといえば硬派で、土曜
の夜は、面子さえ揃えばたいていは徹夜麻雀をして過ごしました。
夏には海水浴にも行き、海辺の民宿に泊まったりもしましたが、夜はやはり麻雀
でした。
麻雀は非常に奥の深い遊びであり、その面白さといったら、他のどんな遊びをも
凌駕、優越するでしょう。
その奥深さは、麻雀にとりつかれた経験のある人にしか、絶対に理解できないで
しょう。
でも、いつも同じ仲間の家で徹夜麻雀…というわけにもいかないので、昼間から
私の家に集まったり、巷の雀荘に行ったりと、いろいろでした。
また、仲間のうち、M大に入学したT君には美大に通う兄貴がいて、当時T君の
兄貴は千葉市のマンションから大学に通っていました。
それが…、T君の兄貴が実家に戻ってくる日は、マンションの部屋は無人となる
ため、名目は留守番ということにして、我々5人は千葉のマンションまで麻雀を打
ちに行きました。
それは、当日の夕方から電車で行き、徹マンなので必然的に一泊して翌日昼
過ぎに帰ってくるというパターンでした。
そうなると、往きの電車内から既に男5人だけの「コンパ」状態となり、千葉駅か
らてくてく歩いてマンションまで行くのが常でした。
何の色気もなく、男5人で麻雀を打ちに行くだけなのに、なんとも風情があって、
半ば小旅行気分に浸れるような不思議な感覚でした。
そんな…、今にして思えば酔狂ともいえるような日々をすごしていたのが昭和
52年頃のことです。
そして、その日、昭和52年9月7日も、例によって夕方から千葉のマンションまで
麻雀を打ちに行きました。
翌日9月8日は、夕方近くにマンションを出て、いつものように千葉駅までぷらぷら
と歩いて行ったのですが、その日は存外強めの雨が降っていました。
5人のうち誰が言いだしっぺだったかはわかりませんが、線路沿いにあるパチンコ店
に寄って「雨宿りして行こう」ということになりました。
ちなみに私は、18歳を過ぎても一人でパチンコ店に入ることはありませんでした。
つまり、当時はパチンコ店に入るのはいつも麻雀仲間といっしょのときでした。
私は、いつもは千円近く負けると「見学」していたものですが、その日は不思議な
くらいツイていて、チューリップ役モノで1台打ち止めにしました。
店内には、太田裕美の「九月の雨」が何度も何度も有線で流れました。
それは当時ヒットしていたからだと思いますが、パチンコ店内で初めて耳にし、
そして何回となく聴くうちに、サビの部分が妙に耳に残りました。
その頃はパチンコで勝っても換金しようなんて考えはまったくなく、いつもタバコか
チョコレートをもらっていたものですが、その日は(私にしてみれば)かなりの勝ち
だったので、何か景品と替えようと思いました。
そして、たまたま景品の中に「九月の雨」のシングルレコードがあり、
これだ!と思い、交換しました。
あらためて自宅に帰ってから聴いてみると、ヒット中とはいえ、ずいぶんと寂しい
というか、結局は悲恋を唄った曲なんだな…と思いました。
さて、翌9月9日のこと、母親がこんなことを言いました。
母 「もうじき、車検なんだけど、いつも頼んでるJ自動車が火事で焼けちゃっ
たでしょう?どこか、安くやってくれるところってないかしらねぇ?」
私 「あぁ、それなら…、たしか同級生のH君が整備士になったはずだから…、
どこか安そうなところ紹介してもらおうか?」
母 「それは、ありがたいね、聞けたら聞いてみてよ」
その日の夕方、というか、夜、この時間ならH君は帰宅してるだろう…という
時間帯に、私は久々H君の家に電話をしてみました。
思えば、H君とは中学卒業以来会っていませんでした。
休みの日、H君の家の近くでたまに姿を見かけることはあっても、私はたいてい
バイクで走っていたせいか、立ち止まってまで話そうとは思いませんでした。
私 「もしもし、同級生の○○ですが、H君いますか?」
電話に出たのは知らない人の声でした。
一瞬、番号を間違ったかな?とあせったのですが、相手は、最初無言で、
「ちょっと待ってください」とだけ言うと、しばらくまた無言電話が続きました。
無言電話なのに、なんだか、ざわざわと多くの人がいる気配がしました。
そして、
H君の父親 「あ…、もしもし、Hの父親ですが…」
私 「同級生の○○ですが、ご無沙汰してます…。H君はもう帰ってますか?」
父親 「………。 Hは、亡くなったんですよ…」
私は、次の言葉を失くしました。
H君の父親は冗談を言えるような人柄ではなかったので、瞬時にマジだ…と
思いました。
曜日と時間帯からして、お通夜か?と、咄嗟に思いました。
私 「ええっ?いつのことですか?」
父親 「昨日の夜です。仕事帰り、大雨の中で事故に遭ったんですよ」
電話を切ってから、私はなんだか、いたたまれない気がしました。
昨日の夜といえば、浪人の身でありながら千葉まで遊びに行って、その帰り
パチンコで儲けて喜んでいた…、まさにその時間帯じゃないか…。
片や、H君は整備士として新型車の発売に臨み毎日遅くまで残業をしていた
ようでした。
私は電話を切るとすぐ、中学校の卒業名簿を片手に、わりと近くに住む小学
校時代からの同級生何人かに電話をかけ、H君の訃報を伝えました。
案の定、子供には横の繋がりなどなく、誰もH君のことは耳には入っていません
でした。
翌日、奇しくも縁遠くなっていたU君の家に同級生が集まることになりました。
そこから歩いてH君の家に行ったのですが、見回すとA君の姿がありません。
それもそのはず、A君は北海道に下宿していたのですから…。
私は、誰かA君の住所か電話知ってるヤツいないか?と訊ねましたが、誰も電
話番号は聞いてなくて、どうにか住所だけはわかりました。
私は内心、「お節介かもしれない、でも、自分がお節介しなかったら、ここにいる
連中のように、A君はずっとH君の訃報を知らないままになってしまうかもしれな
い」と思いました。
はたして、私はその日H君の訃報を知らせる旨手紙を書き、A君に送ることに
したのです。
そうしたら、数日後、A君から私の家に電話がかかってきました。
A君 「手紙くれて、ありがとうな…。心苦しいけど北海道からHの冥福を祈ること
にするよ。酪農の実習で牛の世話をしてるし、すぐにはそっちには帰れそうもない
んだよ…」
私 「ああ、わかったよ。みんなに会ったら、そう言っとくよ」
A君 「おお、悪いな。ところで、おまえから手紙が届いた日の明け方に、変な夢
を見たんだよ」
私 「変な夢?」
A君 「ああ。おまえとか、Uとか、卓球部のときの仲間みんなが北海道まで遊び
に来たんだけどな、なぜか、Hだけが来なかったんだよ…。そうしたら、おまえから
手紙が届いた…」
私は、少しだけ背筋が冷たくなるのを感じました。
でも、次の瞬間には、「あぁ、お節介じゃなかったんだ…」 そう思い直しました。
私 「みんなの気持ちが俺の手紙に乗っかっていったんだろうな…、Hは不意に
亡くなっちゃったから、遊びに行きたくても行けなかった、ってことなのかもな…」
A君 「まあ、そのへんのことは、また今度話そうや…、じゃあ、またな」
享年、十九でした。
まだまだ、これからなのに、成人式も迎えないまま逝ってしまいました。
でも、私は、H君を不憫とは思わないことにしました。
人それぞれ、宿命とか運命とか、目に見えない何かに支配されているのだろうし…
と思ったからです。
ただ、毎年命日くらいはお墓参りして、H君の在りし日のことを偲ぼう…と思いま
した。
H君が埋葬されたお墓は、実は私が幼少の頃から住んでいた家からわずか
百メートルくらいのところにありました。
自宅から近いこともあって、毎年9月8日は私ひとりでH君のお墓参りに行きまし
た。お墓参りといっても、大仰に行くわけではありません。
サンダル履きのまま、普段着のままお墓まで歩いて行き、手を合わせるだけです。
献花の代わりに缶コーヒーを供え、線香の代わりに、火のついたタバコを上に向
けて1本供えるだけでした。
過去に一度だけA君を同伴したこともありますが、それ以外は私一人だけ、その
後約20年間、毎年9月8日はH君の墓参りに行きました。
しかし、かくいう私にもいろいろとあって、ここ十年ほど昼から夜遅くまでの仕事に
従事するようになりました。
つまり、9月8日が仕事休みでなかった場合は、夜の23時過ぎに一人でお墓参
りに行かなければなりませんでした。
H君の命日だから…と思えばこそ、夜の墓場も特に怖いとは思いませんでしたが、
何かの書物で「日没後は神社仏閣には行くべきではない」ようなことを知りました。
そのため、ここ5年~6年は、H君のお墓参りには行っていません。
H君の命日は忘れたりはしませんが、9月8日がたまたま仕事休みでもない限り、
夜は、お墓参りには行かないことにしたからです。
さて、どういういきさつか、昨年から少し仕事の割り当てが変わり、私は昼勤にな
りました。
ただ、昼勤といっても、朝9時から夕方6時までの拘束なので、退勤してH君の
お墓に着く頃には、やはり暗くなってしまうのです…。
そして、今年、よくよく考えてみたら、昼間公用で出かけるときに、ほんの数分だ
け私用でお墓に寄ったとて咎められることもないだろう…と思えてきたのです。
そんなわけで…、9月8日が近づくにつれて私は、「今年は、公用外出する道す
がら、H君のお墓に寄ろう」と計画していたのです。
そうしたら…、通常では起きえないことが起き、しかも雨に…。
あとは、冒頭に記したとおりです…。
その日の公用は翌日に延期してもOKでしたので、都合、私は、ふだんのデスク
ワークに戻りました。
そして、昼食も行きそびれ、午後の2時半を回った頃だったでしょうか…、誰か
若手社員から私に連絡がありました。
社員 「Tさんと連絡とれました。やっぱりパチンコ屋にいました…、でも車の鍵は
持ってないそうです…」
私は、もはやその日は出かけるまいとアタマの中を切り替えてしまったため、鍵が
あろうとなかろうと、どうでもいいとさえ思っていました。
私 「あっ、そう…。じゃ、誰が犯人なのかねぇ…」
社員 「鍵はあったそうです」
私 「あった??」
社員 「ええ、Tさんは昨夜車を使ったあと、鍵掛けボードではなくて、キーボック
スの方に入れたんだそうです。たしかに、見たら、ありました…」
私 「あっ、そう。それはそれは、呆れたね…。まぁ、見つかってよかったよ…」
私がいつも使う社用車はポンコツのリッターカーなので、いつも鍵はボードに掛け
ていました。
でも、普通車でわりと新しい社用車の鍵は、別の場所(キーボックス)にしまうよ
うにして、割とシビアに管理されていたのです。
つまり、夜遅く、Tさんは鍵掛けボードから鍵を取ったにもかかわらず、わざわざ
ご丁寧に別の場所に返したということだったのです。
私は、半ば呆れて外の空気を吸いに出ました。
なぜか…、雨は止んでいました…。
私は、軽く煙を吐きながら、心の中で思いました。
「鍵はあったとさ…、でも、出掛けないと決めたんだから、今年はもう出ないこと
にするよ…、また来年、な…」
というより、私が(お墓に)行かないと決めたから…、疎ましい(九月の)雨が止み、
突然姿を消してしまった鍵が、何事もなかったかのように出てきた…、そんなふうに
思えて、なりませんでした。
(2014.9.26)