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怪我をして気付くこと



人は皆、大なり小なり怪我をしたり病気に罹ったりすると思いますが、それを機に世界観が変わったり、それまで気付かずにいたことに気付かされたりする、なんてことも稀ではないと思います。

かく言う私も、30歳の時に、ちょっとした、いや、かなり間一髪とも言うべき怪我をしました。

今から22年前、つまり昭和63年の12月25日のことです。その日はクリスマスで日曜日でした。

私は、街の喧騒の中より自然の中で過ごす方が好きで、その日は昼過ぎから大原と御宿の間にある防波堤に1人で釣りに行きました。

そこは、当時としては「穴場中の穴場」で、知る人ぞ知るというか、通(つう)の釣り人しか訪れないポイントでした。

防波堤からちょっと外れれば石鯛やスズキを狙える磯場がありましたが、(その磯場は)存外危険な場所で、過去に幾人かが命を落としていました。

私もその危険な磯場で何度かチャレンジしたことがありますが、釣れたのはドッジボール大のフグくらいなもので、それ以外ろくな魚は釣れませんでした。

それどころか、何度めか、海がシケ気味の日に行ったとき、私の立っていた場所(磯)まで波が一気にせりあがってきて、釣り道具一式のうち約半分を波にさらわれました。

なぜ半分持って行かれたかというと、その時私が必死で(両手で)押さえたからです。

果たして私は下半身、海水でずぶぬれになりました。おそらく、もう少し勢いのある波だったら身体ごと持っていかれたかもしれないなと、ぞっとしました。

さわらぬ神に祟りなし、というか、桑原桑原の体(てい)で、それ以来私はその磯場には近づかないことに決めたのです。

そのエリアはちょっと変わっていて、道路から崖と並行するように防波堤が(危険な)磯場まで続いていました。
防波堤といっても港ではなく、磯場つまり崖の侵食を防ぐための防潮堤でした。ちょっと見には、ミニ屏風ヶ浦といったロケーションです。

私は(危険な)磯場で怖い思いをしてからは、いつも防潮堤の中ほどのポイントで釣ることにしていました。

でもそのあたりは ブッ込み釣り で底物を狙うと、仕掛けを巻き戻すときに根掛かりしてしまうことが多く、はっきり言って釣りにくい場所でした。

ある日私は、航空写真でそのあたりの海底の地形の様子を調べてみました。そうしたら、いくつもの浅い海溝が防潮堤と並行して走っていたのです。→(概略図)

海流というか潮流は海溝に沿って流れるもので、すなわち狙う魚も海溝に沿って移動したりしているわけです。

つまり、そこはフカセで海溝に沿ってウキを流して釣るには好ポイントですが、ブッ込み釣り をするにはちょっと無理がありました。

私はさらに航空写真をしみじみと眺めてみました。すると…、わざわざ防潮堤の中ほどまで行かなくても道路から間際の、いわば防潮堤のつけ根?のあたりから海溝に沿って仕掛けを投げ込めば釣りやすそうだと思いました。

つまり、この次はそのあたり(防潮堤のつけ根)で試してみようと思ったのです。そうして、その日(クリスマスの日)は、思っていたとおり、道路際から10mくらいの場所で釣ることにしました。

ところで、その釣り場はほとんど人も車も通らないような辺鄙な場所でした。500mほど先には小さな漁港があり、その周りには民家や雑貨店もありましたが、夜の帳(とばり)が下れば 人っ子一人通りかかることはないほど辺鄙なところだったのです。

私は、すぐ(トランクから)出せるからと、釣り道具は最小限にして釣り始めました。

エサは、来る途中で 岩イソメ を買いました。狙いはクロダイですがそう簡単に釣れる魚ではありません。でも、岩イソメなら、「ぼうず」ということはほとんどなく、アイナメくらいは釣れるからです。

ちなみに、純粋にアイナメを狙うならハリスは短めかブラクリでもかまわないのですが、岩イソメはクロダイの主食なので、もしかしたらクロダイが…という思いで、ハリスはヒトヒロ(約1.5m)とることにしたのです。

私は5号のガン玉オモリで仕掛けを作り、40~50m投げて釣りました。それくらい遠投すると海の中の様子、つまり海溝の位置は視認できません。

やはり何回かに一度は根掛かりしましたが、ぽつぽつとアイナメが釣れました。と言っても15センチから20センチくらいの小さな型でした。

そして、夕暮れが近づいてきた頃、私は遠投するのは止めて、足下からほんの20mくらい先の海溝を狙ってオモリ(えさ)を投げ込みました。そして、タバコを吸うついでに、しばらく置き竿にしておいたのです。

私は、紫煙をふかしながら何気なく穂先(竿の先端)を見ていましたが、徐に穂先がゆっくりとしなりました。

「おっ、来た来た」

私は、竿を立てました。でも、リールを巻こうとしても重くてハンドルが回せません。

「あれっ?! でかい海藻でも引っ掛けたか?!」

私はそう思って、竿の弾力で道糸を引きました。そうしたら、それに逆らって道糸がグイグイと沖に引っ張っていかれ、スピニングリールのドラグがキリキリと小さな悲鳴をあげました。

「おやおや、でかいアイナメかい…。 でも、アイナメの引きじゃないようだな…」

果たして、何度か竿の弾力を利用してリールを巻いてみると、やや銀色っぽい魚体が海面に見えました。遠目で見ても40センチ以上のクロダイでした。

「やった!クロだ!!」

しかし、私は同時に「こりゃ困ったな…」と思いました。

手抜きをして、玉網はクルマのトランクに積んだままだったのです。どうせアイナメの小物しか来まいと思っていたからです。

その堤防の外周にはテトラポットが入れてあり、しかも(テトラポットは)常に波に洗われているため、表面はコケでつるつる(緑色)になっていました。つまり、堤防から一歩踏み出してテトラに足を掛けるのは非常に危険なのです。

ハリスは1号をしばっていましたが、40センチ級ともなると 抜き上げる のはほぼ不可能です。仮に竿の弾力でうまい具合に抜き上がったとしても、その代わりに中空のカーボンロッドの穂先が折れてしまう恐れがあります。

私は、獲物を泳がせたまま途方にくれていましたが、たまたまそこへ2人連れの釣り人がやってきました。

2人は、私が大きなクロダイを竿でタメているのを見て、

「へえ~、こんなところでも釣れるんだねえ~」

と言って、私の後ろで眺めていました。

こんなところ…、というのは、磯寄りではなく防潮堤の根元、言ってみれば道路間際の浅場に大型がいたという意味です。

私は、ええい、この際仕方ないな…と思い、

「あの~、玉網を出し忘れちゃって…、貸してもらえませんか?」

「いや~、俺たちはこれから夜にかけてアジ狙いだから、タマは持ってきてないんだよ」

「じゃ、すいませんが、車のトランクに入ってるんで、とって来てもらえませんか?すぐそこに見える青いクルマです…」

「わかったよ、せっかく掛かったんだしな。でも、今度からはちゃんと足元に置いときなよ」

2人連れの1人はそう言って笑うと、私のクルマから玉網を持ってきて組み立ててくれました。

果たして、そんなかんなで、予定外の大物を仕留めることが出来たのでした。

私は、

「これはちょっとしたクリスマスプレゼントかもな…」

そう思いました。40センチを超えるクロダイなんて、そう簡単に釣れるものではないし、嬉しさもひとしおでした。

しかし…今にして思えば、その時そんな予定外の「拾い物」をしたことが、その後に起きた「不慮の出来事」の伏線だったのです。というのも、そのとき私は、

「ここは、灯台下暗しの穴場なのかもな。これからも、ちょくちょく狙いに来るとするか」

などと思ったからです。

それから、その年が明け、昭和64年の正月4日の夕暮れ時、私は同じ堤防の上に立っていました。

三が日は自宅やパチンコ屋で過ごしましたが、5日から仕事始めということもあって、連休最後の日くらいは釣りでもしようかと、私はまた同じ場所にやって来たのです。

さすがに1月4日頃の日没後は恐ろしく寒く、私はゴワゴワの防寒服を着込みました。

エサは前回同様岩イソメで、仕掛けも前回とまったく同じで、中通しのガン玉5号にハリス1.5mのブッ込み釣りでした。

ただ、前回、つまりクリスマスの日と違ったのは、着いた時既に周囲が暗くなり始めていたことと、何度仕掛けを投入してもまったくアタリ(魚信)がないことでした。

そのうち、あたりは真っ暗になり、海面の様子もわからなくなってしまいました。仕掛けも懐中電灯で照らさないと見えないくらいの闇でした。

それにしても、アタリは全くありません。しかしリールを巻いてみると、仕掛けが根掛かりするかエサだけなくなっていました。

にもかかわらず…、私は寒いのを我慢して、さらに粘りました。なぜかというと、つい先日、同じような条件下で40センチオーバーのクロダイが釣れたからにほかなりません。

粘る…とはいえ、徐々に私は苛立ってきました。何せ、まったくアタリがないうえ、投げ込むたびに根掛かりするようになってきたからです。私はそのたびに懐中電灯で手元を照らしながらハリスの先に釣鈎を結ばなければなりませんでした。

手袋を外さなければ小さな鈎はしばれないので、そのうち指先がかじかんできます。おまけに寒さは増す一方なのです。

冬の堤防は熱気がなく、コンクリートの冷たさが靴底を貫いて徐々に脚の方へ伝わって来ます。

「この根掛かり、何とかならんかな」

私はそう思い始めました。そして、根掛かりするたびに竿をあおって、根掛かりを外すようになりました。

本当は、定石では根掛かりしても竿をあおってはいけないのです。道糸を水平に引っ張って、糸を切る(または切れる)べきなのです。理由は、竿をあおると、竿が折れる恐れがあるためです。

でも、竿をあおってはいけない理由がもうひとつあったのです。私は、その時まで、それ(もうひとつの理由)を知らずにいました。

果たして、竿をあおってもたいてい鈎はなくなりましたが、内2~3回はうまい具合にハリスを切らずに回収できました。

「こんなんじゃ今日はダメだな…。さっさと切り上げて帰り道にパチンコ屋にでも寄って暖まるか…」

そんなことを考え始めていたとき、また根掛かりしました。

今度はいくら竿をあおっても根掛かりが外れませんでした。私の苛つきはさらに増幅しました。

「くそっ!」

私は、竿が折れないくらいの力加減で、えいっとばかりに、少し勢い気味に竿をあおりました。すると、ふっと竿先が軽くなり、根掛かりが外れました。

「やれやれ、外れたか…」

そう思って、顔を右に向けながら腰掛けようとした瞬間、何か硬いものが私の左目のあたりを直撃しました。

「えっ?!」

頭蓋骨の中で、ガンという鈍い音が聞こえて、その直後に猛烈な激痛が左目のあたりを襲って来ました。

私は、反射的(本能的?)に左目のあたりを手で押さえました。

私は左目を押さえたまま、やはり反射的にその場にうずくまりました。左目のあたりの骨が砕けた…としか思えないほどの激痛でした。

私は、何が起きたのかわかりませんでした。

とにかく、漆黒の闇の中から何か硬い物体が、音も姿もなく、無防備な私を急襲してきたのです…。

激痛に耐えながら、私は、思いつく限りの原因をアタマの中で模索しました。

「カラスが石でもぶつけてきたのだろうか?その可能性は低いな。それとも、誰かが石でも投げたか?いや、この堤防には俺以外誰もいない。海の方から何かが飛んできたようだが…。まさか…、仕掛けのオモリが飛んできたということなのか?!」

それからどれくらいの間うずくまっていたのか、時間の流れがまったくわかりませんでした。5分くらいだったのか10分くらいだったのか、もしかしたらそれ以上の時間うずくまっていたのかもしれません。

周りに誰か(釣り人が)いれば、何事かと気遣ってくれるのでしょうが、正月4日の日没後はとうとう誰も訪れることはありませんでした。先述したとおり、そういった特異な場所なのですから…

私は、うずくまったまま、とにかく左目あたりの激痛が和らぐのを待ちました。それだけでなく、待つ間ずっと、私は、

「眼だけは潰れていないでくれ…」と、天に祈り(懇願)続けました。

実際、痛み具合からして、眼球が潰れているか、目の辺りの骨が砕けているかどちらかだろう…としか思えないほどの痛み方でした。

果たして、しばらくして、私は、左目を押さえていた手のひらを見て驚きました。左手には血がべったりとついていて、それが手首のあたりまで流れ落ちてきていました。

私は、ためらうことなく、エサ箱の近くに置いてあった手拭き用のボロタオルを左手に持ち、目のあたりにあてがいました。

エサの岩イソメは1匹が20センチ近くもあり、それを1匹ずつ鈎に刺すのではなく5~6センチくらいに指でちぎって鈎に刺すのです。岩イソメとは活きエサ、つまり、短くちぎれば「赤黒い血」が出てくるわけで、指先に付いた岩イソメの血をそのボロタオルで拭き取るのです。

私は、(そのタオルは)汚いなと思いつつ、この際そんなことは言ってられないと思いました。左目あたりからの流血は止まってはいませんでした。激痛はほとんど治まることもなく、左目の視力は完全になくなっていました。

私は、恐る恐る懐中電灯の灯りを、(見えない)左目にかざしてみました。咄嗟に、眼球が潰れてなければ光は認識できるだろうと思ったからです。

果たして、何も見えないのに、光は感じることができました。

私は、内心、

「ああ、よかった。眼球は潰れてないようだ…」

そう、合掌するような気持ちで、ひとまずホッとしたのです。

そうして、まさか…という思いで、懐中電灯で足元を照らしてみると…、私が海中に投げ入れた仕掛け(オモリ)が転がっていました…。

「嗚呼、やっぱり…、こん畜生!」

とは思いましたが、そこにオモリが転がっているのは、私が竿をあおったりしたからにほかなりませんでした。悔やんでも、怒っても仕方ありません。

そんなことより、

「さて、どうしたものか? いつまでも、こんなところにはいられない…」

そういう意識が優先して働きました。

左目はまったく見えなくなっているし、気がつくと、身体は冷え切っていました。

私は、半ば、途方にくれました。

時計を見ると、まだ7時近くでした。とはいえ、正月三が日明けだし、その時刻ではたいていの外科は終わっています。かといって、近くの公衆電話から119を廻すのも何だか気が退けました。

私は、帰り道の途中にある掛かりつけの内科医に寄ってみようと思いました。内科医とて止血や消毒くらいはしてくれるだろうと思ったからです。

左目の痛みはまだまだ続いているし、なぜか血も止まっていませんでした。心なしか、無傷の右目もショックで視力が低下し、ぼう~っとして見えました。

それに私自身、外傷のショックからか、ひどい頭痛と吐き気がし始めていました。

「まともに運転できるんだろうか?」

果たして私は、(エサ拭きの)ボロタオルを左目にあてがったまま運転するしかありませんでした。右目もぼんやりして、車幅の感覚がほとんどなくなっていました。

普通、国産車はセンターラインを目安に道路の中央寄りを走ると思いますが、その頃の私は左ハンドルのオートマ車に乗っていたので、路側帯を目安にキープレフトで走るクセがありました。

果たして、それが救いとなりました。ギアはDのまま、左手で目を押さえたまま、右手でハンドルを持ち、(対向車を気にせず)路側帯に沿うようにして走れば行けそうだと思いました。

私は、恐る恐るクルマを発進させると、いつもよりずっと遅いスピードで国道を走りました。30分ほど走って、かかりつけの医院のあたりにさしかかりました。

私は、もしや…という思いで、その医院のある路地に入ってみましたが、そもそも休みなのか午後休診だったのか、といった気配で建物の灯りすら点いていませんでした。

結局私は内科医院の前をそのまま通りすぎ、自宅に向かいました。自宅まではそこからほんの5分くらいの距離でした。

私は、家に辿りつくと、すぐに母親に止血をしてもらいました。怪我をして帰って(親に)申し訳ないという気持ちでいっぱいでした。

そのときの母親は、私の目の怪我を見てもびっくりした様子ではなく、「そんな怪我のままでよく帰り着けたね…」というような印象だったように記憶しています。

私はその後すぐ寝込みました。目の周りの激痛は続いていたし、それに伴う頭痛と吐き気で寝込むしかなかったのです。

気がつけば、その日は昼過ぎから何も飲み食いしてなかったのですが、なぜだかまったく食欲もなく、むしろ何も食べられませんでした。

何も考えたくなく、ついさっき起きたばかりの出来事も思い出したくもないという気持ちでした。

翌朝、目が醒めると、昨日まったく見えなかった左目はほんの少しだけ見えるようになっていました。左目には、目やに の膜ができていて、まるで曇ガラス越しに見ているような視界でした。

それでも私は、「眼球が潰れてなくてよかった」と、あらためて思いました。

電話で会社に事情を伝えると、それからまたすぐ寝て、その日はずっと寝て過ごしました。

さらに次の日、私は隣町の割と大きな眼科を訪ねました。その頃には目の前の曇ガラスがなくなり、うっすらと視界が開けたような感じでした。

眼科医は、私の無惨な目の傷を見てもまったく驚く様子もなく、むしろ見慣れているといった印象でした。

眼球が潰れなかった私はむしろ幸運なほうで、野球やゴルフボールが眼球に直撃して救急車で担ぎこまれてくる患者も稀ではないとのことでした。

果たして、所見は…、「眼球打撲に因る衝撃で虹彩が断裂し、水晶体もぐらぐらになっている」旨のことを言われました。

怪我をした左目は、1.5あった視力が0.01くらいに落ちていました。その影響でか、右目は0.8くらいまで落ち込んでいました。

眼科医は、午前中の診察が終わり近いにもかかわらず、

「緊急ですので、早速手術しましょう」と言いました。

私は、躊躇する間もなく、一縷(いちる)の望みをもって、手術を受けることにしました。手術して少しでも回復が早くなるなら、それに越したことはないと思いました。

残りの患者が全員はけるまでしばらく待たされて、私は手術室に案内されました。

果たして、手術とは「レーザー」を使用したものでした。手術室には婦長らしき人と、その眼科医(実は院長)の2人だけでした。

院長は、やはり手馴れた様子で私の左目の中にレーザー光を照射して行きました。左目の中に閃光が走るたび、眼の奥を針で突っつくようなチクっとした軽い痛みが走りました。

後で聞いた話では、その手術は、断裂した虹彩の周りをレーザー光で(瞬間的に焼いて)縫合する手術だったそうです。

それからしばらく、私は1~2週間おきに通院し、視野の検査や虹彩の回復状況の検査を受けました。眼科医の言によると、端的に言って「首から上の組織は再生しない」のだそうです。

つまり、目薬も気休めに過ぎず、あとは自然治癒を待つしかないというわけです。

切れた虹彩は、手術したとはいえ完全に元に戻るわけではなく、また同じような強い衝撃を受けたりしたら、虹彩はおろか水晶体が外れる恐れもあるとのことでした。

眼科医からは、得々と「裸眼のままのアウトドアスポーツの危険性」について説明を聞かされ、今後は球技をするときはゴーグルなどの保護メガネをかけるよう勧められました。

また、眼に衝撃が伝わる恐れがあるスポーツ、つまり、格闘技、柔道、空手などはもう一生禁物だと言われました。さらに、眼精疲労を完全に消化するためには毎日10時間は睡眠を取る必要があるとも言われました。

それはともかく、左目を怪我したばかりの頃は虹彩が伸縮せず、蛍光灯の明るさでも眩しくていられないほどでしたので、私は自宅にいるとき以外は「調光レンズのサングラス」をかけるようにしました。

これ(調光レンズ)は、屋外(紫外線?)では真っ黒になり、室内では透明になる便利なものです。永く使うであろうからと、当時5万円くらいのニコン製のメガネフレームに調光レンズを装着してもらい、それを2つ買って交互に使うようにしました。

余談ですが、さすがにニコン(日本製)は堅牢で、22年目の今現在でも毎日使っているほどです。

なお、眼球内部の出血はゴミの塊のようになって眼の中を動き回っていました。年月とともに徐々に小さくなるとは言われましたが、実際に気にならなくなってきたのはつい最近のことです。

その後、半年くらいして、怪我をした左目は視力が1.2くらいまでは回復しましたが、健常なはずの右目は0.8くらいで落ち着いてしまいました。

どのみち、左目の完治など期待できそうもなく、私はおおよそ1年くらいで通院を打ち切りました。その後は、1年とか2年おきに診察を受けましたが、やがてそれもなくなりました。

ただし、かような眼の内部の怪我は、10年後、20年後くらいに「緑内障・白内障」を引き起こす恐れもあると聞き、多少不安を感じてはいましたが、それから既に20年が過ぎ、今のところは大丈夫なようです。

つまり、30歳を過ぎてからは、左目に限ってはいろいろと制約が付いてしまったわけですが、それでも私は「あのとき失明しなくて良かった…」と思っています。

今回、この記事を綴るに当たって、その当時のことをいろいろと回想してみましたが、果たして私は、昭和64年の1月4日以来、目を怪我した「その釣り場」には一度も行っていません。

もはや、過去の出来事として風化しつつありますが、なぜかいまだに心情的に近寄りたくないのです。

そこは釣り場としては良い場所ですが、何かしらまた蒙ったら(こうむったら)イヤだな…、と思ってしまいます。その後、もっと良い釣り場と出逢えたということでもあるのですが…。

その当時のことですが、私は、大事をとって1週間ちょっと会社を休みました。怪我をした直後でしたので、会社を休んでいる間にも何度か通院しました。

病院から自宅に戻ると、あとは、自室で安静にして過ごしました。安静にといっても、テレビを観たり音楽を聴いたりして過ごしていました。

そんな中、その頃私が勤めていた会社と取引のあった業者の社長が、わざわざ東京から千葉の片田舎まで「見舞い」に来てくれたのには感じ入りました。というか、意外でした。
当時、さほど懇意にしていた取引先ではなかっただけに、余計強く印象に残ったわけです。

当時私は百社近くの業者と付き合いがありましたが、いち早く(見舞いに)来てくれたのはその社長で、その後ぽつぽつと数社の(営業担当者が)見舞いに訪れました。

なお、自宅静養ということもあって会社から上司が来ることもなく、先輩と後輩が様子を見に来ました。

1週間め頃には、懇意にしていた庶務担当の子(既婚者)が1人で見舞いに来てくれて、「辞めないでね」と言い残して行ったのも印象に残りました。

それは決して好意などからではなく、おそらく「似たような先例」があったからでしょう。過去に、病気や怪我のため長く休んでいるうちに、そのまま退職してしまう人がいたのだろう…と思いました。

実際、彼女のその一言で、「そろそろ復職しないとヤバいかな…」と感じたのが正直なところです。

ところで、なぜあの時、オモリが顔にぶつかってきたのでしょうか?

私は、会社に復帰してから釣り仲間のH氏から、こんなことを言われてハッとしました。

「(大原の)あのあたりは、引きいっぱいで水(潮)がなくなっちゃうんだよ。水がないのに竿をあおったりしたら、モロにオモリが飛んで来るだろうよ。特に夜はおっかないよ」

私は、他人から言われて初めて(そんな単純な理屈に)気がつきました。

確かに、言われてみればそのとおりなのです。

オモリが海中にあればこそ、オモりは海面までの間に失速しますが、水(潮)がないとすると、竿の弾力と道糸の張力で、オモリは相当のスピードで竿の方にまっすぐ飛んで(戻って)くるわけです。

後日私は、「大潮」の引きいっぱいの時間帯に、もう少し御宿寄りの磯に行ってみて愕然としました。

「こんなんじゃ、ヤバいはずだ…」

あちこち深い溝は残るものの、沖合い100m、場所によってはもっと先(沖)まで磯が露呈していました。

実際、大原から御宿にかけての磯場はだいたい似たような地形なのです。大潮で引きいっぱい(干潮)になると、磯の上を長靴で歩けるほど水がなくなってしまうのです。

にもかかわらず、あの時私は真っ暗な中で釣っていたものですから、「磯がそんな状態になっていること」にはまったく気付かずにいたのです。

潮もないのに魚などいるはずもありません。まったくアタリもなかったはずです。

既述しましたが、漆黒の闇の中から何か硬い物体が、音も姿もなく、無防備な私を急襲してきたのです。つまり、もし、日中の明るい時間帯だったら…、寸でのところで避けられたかもしれないわけです。

私はそのとき既に釣り歴25年は経っていましたが、まったく初歩的なミスでした。一週間ちょい前とは「潮の干満(の時間帯)が逆になっていたこと」にさえ気付かずにいたのですから…。

詰まるところ、私が、そのとき、いろいろなことを安易に考えていたゆえの出来事だったのです。さらに、その伏線となったのが、クリスマスのときの思わぬ拾い物だったのです。

「柳の下に鰌(どじょう)は二匹いない」とは言いますが、もしかしたら…という「欲目」が私の判断力を麻痺されていたのは確かです。

全てのことに通じるとは思いますが、特にアウトドアスポーツについては、何事も生半可な気持ちで、または、安易に自分に都合の良い憶測で(見込みで)臨むことは非常に危険だと思います。

また、私はその時、アウトドアスポーツ、特に球技をする際、裸眼のままでは不慮の事故により失明する危険性が高いということを、身をもって体験しました。

言うまでもありませんが、ゴルフを始め、野球、テニス・サッカーなど、たいていは猛烈なスピードで球が行き交います。極論すれば、卓球のような軽量の球でも、当たり所が悪ければ(運が悪ければ)、失明する恐れがあると言っても過言ではないのです。

総じて、アウトドアスポーツ、特に球技をする際は、サングラスとかゴ―グルは必携です。サングラスは紫外線から眼を護る観点でも必需品と言えます。

よく真夏の炎天下で、帽子もかぶらず、サングラスもせずにいる(いられる)人を見かけますが、私に言わせれば、まさしく危険極まりない態勢であり、「よく平気でいられるな…」と思ってしまいます。

サングラスは、決してファッションのためだけのものではなく、むしろ「色つきの保護めがね」と言うべきでしょう。

さて、あの時、なぜ私は失明を免れることができたのでしょう? 直径2センチくらいの鉛のオモリ(大きなビー玉くらい)が猛烈なスピードで眼を直撃してきたにもかかわらず…。

それは、あの時、一心に「眼には見えない力」に哀願したからだと思うのですが、冷静に回顧してみると、こういうことのようです。

おそらく…、猛烈なスピードで飛んできた鉛のオモリは、私の眼球を直撃したのではなく、頬骨の上、眼窩(がんか)の縁(ふち)あたりに当たったのでしょう。

つまり、鉛のオモリはある程度失速してから、さらに下瞼にめり込んだのだと思います。もし、鉛の塊が眼球を直撃していたら、決してあの程度の怪我では済まなかったはずですから…。

怪我をした直後、私の左目の下瞼まぎわの皮膚は無惨にも割れていました。私の眼窩の周りの骨は存外硬かったようで、骨が砕ける代わりに下瞼あたりの皮膚が割れて大出血したのだと思います。

果たして、多少の後遺症は残ったものの、失明だけは免れた…ということなのです。

その時の光景は、20年以上過ぎた今思い出してみてもゾッとしますが、今にしてみれば…、どう考えても、不幸中の幸いだった、失明しなくて良かった、としか考えようがないのです。

今般なぜこんな(痛ましい)体験談を記事にしたかというと、何事につけ「意外なところに(怪我や事故)の伏兵が潜んでいたり、思わぬところに落とし穴がありますよ」ということをお伝えしたかったからにほかなりません。

得てして、かような事故や怪我に関することは、端からすれば、「まあ大変でしたね」とか「不幸中の幸いでしたね」の一言で済んでしまうものです。所詮、他人にとっては「対岸の火事」でしかありません。

ですが、自分が同じようなめに遭ってみて初めて、「ああ、なんであのときあんな(危険な)ことをしてしまったのだろう?」とか、「なんで、あのとき(危険に)気付かなかったのだろう?」などと後悔するものなのです。

何事にも「定説とか定石」、簡単に言えば、お手本というもの(決め事)があるものです。それは先人たちが長い年月の中で試行錯誤や紆余曲折の末に体得したものであり、それを軽んじるのはとても危険なことなのです。

よく、登山や磯釣り、特に海の夜釣りなど、教科書には「1人では行かないこと」と書かれていますが、これは総じて、不慮の事態が発生した時に「単独行がいかに危険か…」ということを意味するものです。

裏を返せば、「単独行はとても危険なので敢えて1人で行くのなら、覚悟のうえ、より一層気をつけよ」ということなのです。

蛇足ですが、もうひとつ(危険な)事例を記しておきます。

これは釣り仲間のH氏から聞いた話ですが、その昔H氏の知人はアジの夜釣りに行ったとき、誰かが振り込んだ仕掛け(釣鈎)が眼に刺さってしまい、救急車で運ばれたそうです。その時の光景は…想像もしたくないくらいゾッとします。

釣りというのは、鈎の付いた仕掛けを投入して釣るものです。仕掛けの投入の仕方はざっくり言って、竿の弾力で手元から送り込むか、後ろに構えて頭上を振りかぶって投げ込むかの2とおりです。

仕掛けを前に送り込む場合は比較的周りに影響しませんが、投げ込む場合は剣道のメンのような動作で投げるので、釣り人の後ろのエリアは非常に危険なのです。

すなわち、単純に考えても竿の長さプラス仕掛けの長さは危険地帯となります。つまり、5mの竿で仕掛けの長さ(垂らし)が1.5mあったとすると、釣り人の後方半径6.5m前後は最も危険と言えます。

もし、そんなことも知らずに(のん気に)釣り人の後方に立っていたりしたら…、魚ではなくヒトが釣れてしまうことにもなりかねません。

ヘラブナ釣りなど、キャッチアンドリリースのための釣鈎は「スレ鈎」と言って 返し がありませんが、それ以外ほとんどの釣鈎には、獲物を逃がさないための 返し が付いています。

また、狙う魚によって鈎の大きさも千差万別で、米粒大のものからマッチ箱くらいのものまであり、返し もそれに比例して大きく、より鋭くなります。

実は、こういった不測事態が発生した場合、この 返し がもっとも厄介なのです。

鋭い鈎先が、ちょっと刺さったくらいなら「痛い!」程度で済むかもしれませんが、返し までぐっさり刺さってしまった場合はそう簡単には抜けません。

特に、腕や脚など身体の柔らかい部分に刺さってしまったときは悲惨です。

痛いのを我慢して無理に鈎を引き抜こうとすれば傷口を広げるだけだし、雑菌の感染も心配しなければなりません。とにかく、すぐに外科に向かうべきなのです。

総じて、原則、釣り人の後ろにはむやみに立たないことです。釣りをしない人(したことのない人)は、特に注意が必要です。

以下はイメージですが、観光(旅行)か何かで海(港町)の近くの宿に投宿したとします。

夕刻にチェックインして、風呂あがりに一杯飲って(やって)、ほろ酔い気分で宿の外へ散策に出てみると、近くに小さな漁港が見えてきました。

ためしに堤防まで行ってみると、何人かの釣り人が夜釣りをしているようです。時節は夏の夜、夕涼みにはうってつけのロケーションです。

いい気分のまま、釣り人の1人に近づいて、

「何か釣れますかぁ?」

などと言いながら、魚篭(びく)の中を覗き込もうとした瞬間、何かが勢いよく鼻先をかすめるくらいに通過して行きました!

「おっと、おっかねえ…」

目の前をかすめていったのが、「エサの付いた鋭い鈎」だとわかると、酔いもいっぺんに冷めてしまいます。

おっかねえ…だけで済んだのは、単に運が良かっただけなのです。自ら危険地帯に侵入したのですから…。

実は、こんなことは稀(まれ)でも何でもありません。よくあることです。

繰り返しますが、釣りをしない人(したことのない人)は、特に気をつけたほうがよいでしょう。

釣りとは、傍目(はため)にはのんびりとして穏やかなものに見えるかもしれませんが、実際は思った以上に激しく、常に危険と隣り合わせのもの(スポーツ)と言えるでしょう。


(2010年12月8日)
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