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傘鉾パート2

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ラジオの思い出

もう、かなり古い話ですが、昭和40年代の始め頃、我が家は千葉の片田舎に居を構え、父親は小さな工務店を営んでいました。

すなわち、幼少の私は「夕焼けの詩」よろしく、昭和ならではのモノに囲まれて暮らしていました。

工務店の作業場にはオート3輪やトヨエース、スーパーカブなどがあり、自家用車はホンダのN360でした。

ちなみに、そのスーパーカブですが、みんな決まって「カブ」、「カブ」と呼んでいました。カブとは、英語的には キャブ なのでしょうが、その頃の私には英語なんてわかりっこありません。

私は、「カブ」なんて、変な名前のバイクだな…といつも思っていました。

というのも、その頃私はちょうど「魔法使いサリー」の本放送を観ていた時期で、幼少の私にとっては、「カブ」=サリーの弟 という強烈な印象があったからです。

ところで、我が家の周りはいわゆる農村地帯で、各家には村役場が敷設した有線電話がありました。
この有線電話(のスピーカー)からは火災発生時の消防団の緊急招集や、定期的な村内放送などが(随時)流れてきました。
朝は、6時だったか7時だったか目覚まし代わり?の音楽が、夕方5時には「故郷」や「夕焼け小焼け」などの唱歌、夜の放送終了時刻にはノスタルジックな音楽が流れてきました。

印象に残っているのは、「シバの女王」や「ヘイ・ジュード」「イエスタディ」などです。

その後、平成の始め頃、我が家は村外に越してしまったので、今でも有線電話があるかどうかはわかりません。

その名残なのでしょうか、今では村内のあちこちの電柱に巨大なスピーカが設置されていて、そのスピーカから村内放送や朝夕の郷愁的なメロディが(定時刻に)流れてきます。

ちなみに、昭和40年頃、有線電話の普及率が100%であったのに対して、電電公社の電話の普及率はまだ100%ではありませんでした。我が家は商売柄、電話を引いていましたが、村内には(電話の)ない家もたくさんありました。

なお、その当時の電電公社の黒電話には、プッシュボタンはおろかダイヤルもありませんでした。今あらためて調べてみると、マグネトー(magneto)式という、(ハンドルをぐるぐる回すと交換手に繋がる)という仕組みの電話機でした。

さて、そんな時代背景のなか、私とラジオとの出逢いは、小学校3年の頃だったように記憶しています。

私は小学生の頃はプラモデルが大好きで、学校の帰り道にはよく、駄菓子店兼プラモデル店に寄り道していました。

そこではいろんな(メーカーの)プラモデルが売られていましたが、中でも私はタミヤの戦車(のモデル)が好きで、よく箱を開けては中のパーツを覗いていました。

価格はおおよそ300円から500円くらいのものが多く、700~800円ともなると、ずいぶん高いなぁと思ったりしたものです。

ある日私は、その店の一角でキットの「ゲルマニウムラジオ」を見つけました。たしか値段は500円くらいだったと思いますが、小学生にとっては破格でした。

何せ、買い食いの焼き鳥が1本5円、ベビーラーメン(今はベビースター)が10円という時代です。

その頃の我が家のラジオはというと、まだAC100Vの真空管方式でした。世にトランジスタラジオはもう発売されていましたが、石(トランジスタ)の数が多いほど価格も高くなり、とても小学生が買ってもらえるようなものではありませんでした。

都合、私は、親に泣きついて、そのゲルマニウムラジオを買ってもらいました。

私は文系なので、仕組みはよくわかりませんが、それは 「電池の代わりにアンテナ兼用のコードジャックをACコンセントの片側に差し込むと聴ける」 という不思議なラジオでした。

小学生が就寝する時間帯、つまり夜9時とか10時台には、よくグループサウンズの曲が流れていました。中でも特に、テンプターズの曲が印象に残っています。

ただし、ゲルマニウムラジオで聴けるのはTBSとか文化放送などのキー局だけでしたので、存外早く飽きてしまいました。

また、(何度か感電を経験して)ACコンセントの怖さを知っていたので、華奢な構造の、いわば おもちゃに100Vが通電しているかと思うと、何だか気味が悪かったのです。

その後私は、中学校に上がるまでにはそこそこまともなAMラジオを買ってもらいました。もうその頃にはトランジスタラジオも手に入れやすい価格帯になってきていました。

初めて買ってもらったのは日立のWH814という8石ラジオで、一応短波も聴けました。今にして思えば可もなく不可もないラジオでしたが、その頃の私にとっては初めてのちゃんとしたラジオであり、いわば「宝物」でした。

後々、そのラジオは電池の液漏れでダメにしてしまいましたが、外箱は今でも残っています。このラジオの外箱はきれいな装丁で、捨てるにはもったいないと思い、古銭などの入れものとして大切に保管しておいたからです。

日曜の朝は、ロイ・ジェームス が司会の不二家歌謡ベストテンが目覚まし代わりでした。当時はたいてい天池真理とか桜田淳子の曲がベストテンに入っていたものです。

なお、私は幼少の頃から稀代(きだい)のテレビっ子でしたが、当時はまだテレビは茶の間に1台きりという時代でした。

つまり、夜9時を過ぎればテレビは親に占領されてしまうので、それからあと(の時間帯)は自室でラジオを聴くしかなかったのです。

その頃の記憶はちょっと曖昧ですが、1970年代のAM放送には面白い番組や趣(おもむき)のある番組が目白押しでした。

欽ドンを始め、ミュージックインハイフォニック、オリベッティ劇場の怪人二十面相・ゼロの世界・愛と誠などなど、今にして思いおこせば、毎日わくわくしながら番組(の放送)が始まるのを楽しみにしていたものです。

そして寝る直前は、毎晩子守唄代わりにジェットストリームを聴きました。

私のラジオはAMと短波だけでしたが、FM放送はステレオのチューナーで聴くことができました。ステレオはいつも私の部屋に置いてあったので、実質夜は私が専有できたのです。

その頃のジェットストリームのナビケータは、城達也 でした。ジェットストリームは午前0時からほぼ1時間の番組でしたが、たいてい私は途中で寝入ってしまうので、最後の方はほとんど聴いた記憶がありません。

それ以降の時間帯のラジオに傾倒していったのは、やはり高校に入ってからでした。セイヤング、オールナイトニッポン、パックインミュージック、などなど、深夜3時くらいまでは聴き入っていたものです。

その頃のパーソナリティでは、谷村新司やばんばひろふみ、などが好きでした。売れ始めた頃のタモリ、鶴光もラジオをやっていました。もちろん、落合恵子も現役パーソナリティでした。

さて、今あらためてWEBで調べてみると、1970年代はいわゆるBCLブームだったそうです。

でも、当時私は BCL などという単語は耳にしたこともなく、ただ単に聴きたいから(面白いから)ラジオを聴いていたのです。

たしか中学3年の頃だったか、私は、中三時代(月刊誌)か少年サンデー(週間)あたりの雑誌で「海外の短波放送を聴いてベリカードをもらおう」旨の特集記事を見かけました。

私は小学校の頃から切手やコインを集めていたこともあって、(未知の)ベリカード というものが無性に欲しくなりました。

ところで、この ベリカードですが、それがどういうものなのかは、「ラジオ通」でもない限り見たことも聞いたこともないと思います。

ベリカード とは、Verification Card の略で、放送局が発行する 受信確認証 のことです。

写真は、ラジオ・オーストラリアから発行してもらったベリカードです。



【RADIO AUSTRALIA :S48年頃】





【RADIO AUSTRALIA :S48年頃】



その当時(1970年代)は、ラジオ・オーストラリアの短波放送には日本語放送があり、特に深夜は受信状態も良好でした。

ただ、安価なラジオでは受信できたとしても感度が低く、そこそこ高性能なラジオでないと海外の短波放送を良好に受信することは難しかったのです。

私のラジオは短波も聴けましたが、いかんせんチューニングダイヤルの精度もアバウトで、海外の放送をキャッチするのには苦労しました。

ところで、私は幼少の頃からなぜか ソニーの製品が大好きで、定期的に発行される製品カタログを手に入れては眺めていました。

各家電メーカはこぞって高性能のBCL対応ラジオを世に送り出していましたが、私には ソニーのラジオしか眼中にありませんでした。

私は親をたきつけて、体(てい)よく スカイセンサーの5500を買ってもらいました。それは、あくまでも自宅用でしたが、実質私がほとんど専有していました…。

このスカイセンサー5500は高級機とは言えないものの、なかなか性能もよく使い勝手もよいものでした。私は、深夜が来るのを待って、世界各地の周波数を探ったものです。

放送されている内容はさておき、5000キロ以上離れた海外から電波を、家庭用のラジオで受信できるということは、当時中学生だった私にとっては 感激 以外の何ものでもありませんでした。

ベリカードは、(雑誌で紹介されていた)ラジオ・オーストラリアのものを、真っ先に手に入れました。

ちなみに、この、ベリカード をもらうためには、(ある日ある所の)電波の受信状態を 5段階の数字で評価してその放送局に報告すればよいのです。

その 5段階の数字を、SINPOコード と呼びます。

S:Signal Strength          信号の強さ
I:Interference             混信の有無
N:Noise                   雑音の有無
P:Propagation Disturbance    伝播障害の有無
O:Overall Rating           総合評価

数字の評価は、1より2、2よりも3、4より5の方が「良好」ということになります。

もっと簡単に言えば、ある日ある場所で聴いた(主に)ラジオ放送の受信状況のSINPOコードを便箋に記入し、返信用封筒と返信用の切手を同封し、「ベリカードを発行ください」旨を記入し、その放送局に郵送すればよいのです。

でも、何やら ベリカードの発行は放送局の義務ではなく 謝意 だそうで、(ベリカードの)発行が遅かったり、黙殺されることもあるようです。

ただ、このベリカードはお店で売っているものではないし、知る人ぞ知るレアものなだけに、興味のある方はチャレンジしてみてください。

さらに詳しいことは、WEBで調べれば見つかると思います。

その後私は、街の小さな電気店の店頭に置いてにあった「日本全国のラジオ局一覧表」を手に入れてから、国内の地方局(AM)も電波状態の良い深夜なら受信できることを知り、地方局のベリカード もいくつか入手しました。

よく見ると気付くと思いますが、いずれも 周波数変更前 のものです。


【RKB毎日放送:S48年頃】




【STV札幌テレビ放送:S48年頃】




【FM東京:S49年頃】





【CBC中部日本放送:S49年頃】




【文化放送:S52年頃】




【HBC北海道放送:S53年頃】



なお、その後自宅のAMラジオが壊れたため、スカイセンサー5500は主に親が使うようになり、私はその代わりに当時発売されたばかりのスカイセンサーの5800を買ってもらいました。

スカイセンサー5800は、約40年前の定価が2万円くらいで性能的には5500を上回るものでしたが、何となく使い勝手が悪く、というか5500の方が使い慣れていたため、さほど思い出には残っていません。

とはいえ、この5800は今でも現役で待機中です。片や、愛着のあった5500は何度か引っ越しするうち、いつの間にか行方不明になってしまいました。

今のソニー製品には全く興味が湧きませんが、その当時のソニーのラジオは間違いなく「絶賛に値するもの」だと思います。

その後私も、大人になるにつれ、また世の中が変化するにつれ、徐々に短波放送への熱も冷め、先述したようにAMの深夜放送に傾倒していったのです。

さらに、昭和50年代のVHSビデオレコーダーの出現、及び低価格化によって私の興味の矛先は一気に、聴覚よりも視覚に訴えるものに移行していきました。

そして、ここ十年来、さらに視覚に訴えるものは、テレビやビデオからインターネットにとって代わり、今に至っているように思います。

昔は苦労して受信した海外のラジオ放送も、今ではWEB経由で容易に受信、というか視聴可能のようです。

とはいえ…、たまにはキーボードやマウスの操作を中断して、つまり、酷使しすぎの眼を休めて、ラジオから流れてくる音楽(歌声)やトークに耳を傾けてみるのも一興ではないでしょうか?

それは、イヤホンでハイテクのデジタルを聴くのではなく、空気振動による物理的な音でアナログ(レコード)を聴くことに似ているような気がします。


(2011年1月25日)
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