2011/09/10 Category : 雑記帖 早暁の出来事 (読みきりフィクション) 5月連休なかばのある日、僕は前夜からずっと自室で机に向かっていた。ゼミ合宿の課題レポートを一晩で書き上げてしまうつもりでいたのだが、ついついラジオの深夜放送に聴き入ってしまい、思いのほかあまり捗らなかった。古い掛け時計が何回か鳴ったのが聞こえ、あらためて時計を見遣やると、ちょうど午前4時を回ったところだった。つい今しがた火を消したばかりなのに、僕は、無意識のうちにまた新しいタバコに火を点けていた。部屋の中は紫煙で充満していたが、ベビースモーカーの僕は、閉め切った部屋でそんな空気を吸っていてもへっちゃらだった。僕の部屋は和室の造りで、窓には障子が嵌っていた。つまり、障子を閉め切ってしまうと部屋の中から外の様子はまったくわからない。僕は、おもむろに東向きの窓を開けてみた。昨晩からの、からだごと吸い込まれてしまいそうな闇は消え去り、鬱蒼とした薮や雑木林などがその姿を現し始めていた。東の空は既に明るくなり始めていて、目を凝らすと遠くに聳える高圧線の鉄柱や散在する家の輪郭もうっすらと見えてくる。その光景はぼんやりとしたモノトーンで、ともすれば夕暮れ時と錯覚してしまいそうなほどだ。僕は、セブンスターを咥えたまま、しばし「夜明けのパノラマ」に見入ってしまった。しかし、そんな幻想的なパノラマも瞬く間に本来の色彩を取り戻して行ってしまう…。そして、それが ごくありふれた朝の風景 に変わってしまうと、妙な寂しささえ感じてしまうものだ…。「春宵一刻値千金」とはよく耳にするが、早暁の色彩の移り変わりは、千金はおろか万金にも値するのではないか?とさえ思える。「こりゃ…、まだまだ眠れそうにないな…。眠れないついでに、ひとっ走りしてみるか…」僕は、ほとんど燃えさしになったタバコを躙り消すと、ジャージからGパンに穿き替え厚手の皮ジャンを羽織った。バイクに乗るときは、体感温度は一季節前に戻るものだ。とりわけ、早朝は間違いなく寒い。僕は、無造作に壁に吊るしてあったアライのジェットを手に取り、まだ紫煙の煙る部屋をあとにした。僕が寝起きする部屋は母屋とは離れになっていて、平屋の半分が僕の部屋で、残り半分は車庫という造りだった。常夜灯のない車庫の中で、青のCB400Nが静かに眠っていた。降ろしきっていないシャッターの隙間から、夜明けの薄明かりが木漏れ日のように射し込み、クロームメッキのマフラーが暗がりの中で鈍い光を放っていた。初夏の頃とはいえ、思ったとおり明け方の空気はまだ冷たかった。つっかけサンダルの足もとにひんやりとした空気が纏わりついて来る。僕は、サンダルからGIUDICIのブーツに履き替え、少し錆びついて重くなったシャッターを下半分だけ開けた。シャッターの入口にはスロープと段差があるので、僕はいつもエンジンをかけたまま(動力で)前向きに車庫に入れることにしていた。車庫の中には乗用車があるので、車庫内で向きを変えることはできない。すべからく、車庫からCBを出すときは(人力で)後ろ向きとなるのだが、いかんせんこの段差でバランスを崩すと重いCBを支えきれなくなり倒してしまう。僕は、CBを後ろ向きのまま倒さないよう注意深く車庫から引き出すと、センタースタンドを立てセルスタータを回した。僕は、いつもチョークを使わずにアイドリングだけでウォームアップすることにしていた。辺りはまだ鳥の囀りすらなく、ひっそりと静まり返っている。そんな中でもCBのノーマルマフラーは静かなものだ。僕は、まだ寝入っている家人を起こさぬよう、静かにシャッターを下ろした。金属製のシャッターを勢いよく下ろしたときの「バシャーン」という音は、思いのほか寝耳に入るからだ…。おもむろにギアをセコンドに入れ、僕はゆっくりとクラッチを繋いだ。何となくローギアからは発進したくない気分だった。そのまましばらくの間ギアをシフトアップせず、自転車にも追い越されそうなくらいゆっくりと走ってみる。ジェットヘルなので風は冷たく感じるが、かえってそれが、徹夜明けで火照り気味の頬には心地よいくらいだ。国道に入ってからは、僕は路肩いっぱいに寄って法定速度以下で走った。しかし、路肩にはずっと縁石が入っているので、存外車道を占有していることになるだろう。GW中とはいえ、夜が明けたばかりの国道は、まだ極端に交通量が少なかった。それでも、時折、後ろから追いついて来た車が僕を追い越して行く。しかし、僕は追い越されるたび、何か不思議な感慨に浸っていた。ふだんの僕なら、車に追い越されたりすると劣等感や闘争心を感じたりするのだが、その日は追い越されても不思議と優越感(のようなもの)さえ感じていた。しかし、I町のはずれの変則五差路にさしかかろうという頃、サーフボードをルーフに載せた赤いワゴンが、結構なスピードでCBのハンドルすれすれを通り過ぎて行った。「へえ~、やってくれるじゃねえか…」僕は、一瞬ヒヤっとし風圧で少しバランスを崩しかけたが、とくに冷静さは失わなかった。ふだんの僕なら、カッとアタマに血が上り、追いかけていって後ろから威嚇したり(無益なことを)していたかもしれない。しかし、僕は後ろをまったく気にせずにゆっくり走っていたわけだし、わざとすれすれに追い越して行ったとも限らないのだ。いずれにせよ、朝っぱらからもめごとは御免だ。僕は、ヘルメットの中で呟いた。「そういえば、昔、同じようなことがあったっけな…。」それから遡ること、さらに5年前。当時、僕は大学浪人1年生だった。予備校へ入学しなかったせいか、いつの間にか毎日不規則な生活を続けるようになっていた。その日も明け方近くまで集中して勉強したせいか、神経が昂ぶったままで、とてもすぐには眠れそうもないと思った。また、久々良い天気になりそうだったので、朝から寝て過ごすのはなんだか惜しいような気がしたのである。「気晴らしに、釣りにでも行ってみるか…」僕は、少年時代は釣りが好きで、季節を問わずよく海や川へ出かけた。特に、秋から冬にかけては、毎週のようにE川の河口へハゼを釣りに行ったものだ。僕の家からE川の河口までは自転車でゆうに1時間はかかったが、少年時代の僕にとって自転車のペダルを踏むことは何の苦痛でもなかった。それほどE川の河口はよくハゼが釣れるポイントであり、僕にとって馴染みの深いところだったのである。なかんずく、釣り前日の土曜日の夜は、わくわくして眠れないことが多かった。夜遅くまでリールの手入れをしたり、三徳(天秤)と小田原とを見くらべて、明日はどちらを使おうか…などと思案して過ごし、挙句は釣り雑誌に突っ伏して朝まで寝ていたこともあった。しかし、僕は成長するにつれて、徐々にそれ(釣り)に対する興味を失って行った。人は歳を重ねるにつれ、興味の矛先が少しずつ変化していくものなのかもしれない。それゆえ、その頃(浪人時代)の僕にとっては、釣りに出かけることなど、もはや年に数えるくらいの気まぐれでしかなかった。僕は、どこへ行ってみようかと考えた。とりあえずバイクで無難に行けそうなところ、往年のE川へでも行ってみようと思った。しかし、ハゼを釣るには少し時期が早い。もし釣れたとしても型の小さなミニハゼだろう。それに、朝早すぎて餌店が開いていない。僕は、遊びがてら外房ならではの「叩き釣り」をやってみようかと思った。叩き釣りというのは、タマゴ浮きと外房固有の疑似鈎でフッコやスズキを狙う、いわゆるサーフキャスティングなのだが、僕は今まで何度トライしても釣れたためしはなかった。僕は、ハスラーTS125のリアシートに3本継ぎのアマゾンを縛り付けると、防寒用のドカジャンを着込み、そそくさと夜明けの道を走り出した。その頃の僕は、まだ車の免許もなく、ふだんの足はもっぱらTS125だった。なぜ、オフロードバイクにしたかというと、林道や砂浜ならスピード違反で捕まることもないだろう…と考えたからである。その当時、僕は、警察(のスピード検問)に対して、抵抗意識や敵愾心のようなものを持っていた…。というのも…、僕は、高校に入ってからすぐ原付免許を取り、CB50を買ってもらった。僕は、このCBをこよなく愛し、どこへ行くにも一緒だった。原付とはいえ、それまでの自転車とは違って、一気に行動半径が拡がるのがこの上なく嬉しかった。特に放課後などは、ほとんど毎日のように、何の目的もなくあちこち40キロから50キロくらいは走り回っていたものである。しかしある日のこと、僕は国道を走行中、思いがけず「ネズミ捕り」に引っかかってしまった。計測62キロで、62-40=22キロ速度超過と言われた。しかし、僕のCBの前を走っていた90CCの小型二輪は捕まらなかった!僕は、対応した警察官に食って掛かった。「なぜ、僕だけ捕まえて、自動二輪は捕まえないのか?」しかし、警官は、開き直ったように言った。「他人のことは、いいんだよ! 君は原付だから、ほんとうは62-30で32キロ(超過)だろう! でも、国道が40キロ(制限速)だから、22キロで勘弁してやってるんじゃないか?!」僕は、返す言葉がなかった…。「悪法も法なり」とは言うが…、市街地でもない限り、実際に30キロで走っている原付などいやしない…。CB50は90キロまで出るバイクだった。僕は、「こんなんじゃ、原付になんか乗ってられない…」そう思った。ネズミ捕り(というシロモノ)は昔の「闇討ち」のようなもので、突然バッサリやられたときの驚き・悔しさ・怒り・畏怖などなど、そのときの気持ちは遭遇したことのある人にしかわからないだろう。ことさら、十代の多感な時期にそんな目に遭ったりすれば、心に深い傷を負うのは間違いない。はたして、僕はそれ以来「二度と捕まってたまるか!」と思うようになったのである。僕は、高2の夏休みに教習所に通い、自動二輪免許を取った。CB50からTS125に替わってからは、幸か不幸か「ネズミ捕り」に遭うこともなくなったが、僕は、依然として「捕まるものか!」と思い続けていたのだ。そんな思いがあって、僕は、国道ではいつも路肩ぎりぎりまで左に寄り、きっちり時速40キロで走るようにしていた。当時は事故が多発していたこともあり、国道128号のセンターラインは黄色の実線で、全線追越禁止、制限速度は40キロだった。平日の夜明けということもあって、国道には車はほとんど走っていなかった。僕はサイドミラーなどまったく気にせずに走っていた。徹夜明けの頬に朝の風が爽やかで、とても気分が良かった。時折、他県ナンバーの車が、風を切り裂きながらかなりのスピードで僕の視界の先へと走り去って行った。僕はヘルメットの中で、ぼんやりとその繰り返しを見るとはなしに見ていた。しかし、I町にさしかかる頃だったろうか、突然、胃袋に大きな鉛の塊を押し込まれたような痛みが走った。サーフボードを載せた赤いファミリアが、TSのハンドルを掠めるようにして追い越して行ったのだ。「バカヤロー!」僕は反射的に怒鳴っていた。相手には聞こえるはずもないが、そう叫ばずにはいられなかった。しかし、激しく憤りながらもどうすることもできない自分がいた。不甲斐なく僕の体は寒さも手伝って小刻みに震え始めていた。やがて、赤いワゴンは何事もなかったように僕の視界の先へと消えて行った。僕は、ヘルメットの中で、「わざとやったのなら…、いずれ同じ目に遭うさ…」そう思った。とはいえ、重苦しい気分は、決して晴れはしなかった。M町に入りT岬灯台入口の信号を左折してしばらく行くと、もうそこはE川の河口である。河口と言っても、そこは「北岸」にあたる。その昔、僕が小学生の頃よく自転車でハゼ釣りに来ていたところだ。河口の入江から堤防までは海砂がかなり厚く堆積していてとても普通の車では走れないが、オフロードバイクならまったくおかまいなしである。僕は、悪路を走り切り堤防の中ほどまでTSで乗りつけた。だが、そこから堤防の先端までは歩きである。先端までTSで乗りつけた方が楽チンなのはわかっているが、万が一、大波が来たりすれば、釣り道具はおろかTSごと持っていかれてしまう恐れもある。僕は、気持ちを鎮めようと、セブンスターに火を点けた。その日の海は、遠目には穏やかそうだったが、間近にすると思いのほか波が荒く海風もきつかった。「これじゃあ、釣りになんかならねえな…。道すがらケチもついてるし…」しかし僕は、いわゆる「あまのじゃく」な性分だった。「毒食らわば皿までよ。せっかく来たことだし、何回か仕掛けを投げやろう…」そう思った。道すがら…、昔なじみだった餌屋はシャッターが閉まったままだった。もしかしたら…、しばらく寄らないうちに潰れてしまったのかもしれない。僕は、持ってきたルアー(擬似鈎)をタックルボッスから取り出した。予定どおり?叩き釣りだ。砂浜の突堤でルアーを投げたとて、魚が釣れる確率など低いが、もともと釣果を期待して来ているわけではない。仕掛けは、3.9メートルの並継ぎのアマゾンにスパーク200、道糸は8号という組み合わせだ。僕のお気に入りの釣り道具は、何から何までオリンピック(の製品)だった。道糸に玉子ウキを通してから、ふと何気なく対岸の堤防を見遣ると、そこには黒いウェットスーツを着込んだアザラシたちが戯れているのが見えた。アザラシとは、いわゆるサーファーのことである。かつて、ユーミンはサーファーのことを「カラス」と表現したが、僕の知り合いのサーファーは「アザラシ」という言い方をしていた。はたして、アザラシは3人いた。僕は、そのアザラシたちを軽蔑の念をもって一瞥した。「……」そして、言葉では表せないような侮蔑めいた呟きを吐き捨てた。僕の胸には、まだ先刻の憤りがくすぶっていた。さっきの(赤いワゴン)もサーファーだ!当時の僕はサーファーの実態など知る由もなかったが、平日の朝っぱらからサーフィンをしている連中…、おそらくはヒマな大学生だろう…と勝手に思い込んでいた。毎日毎日、重責と焦燥との葛藤の中で悶々と過ごす自分とは対照的に、やつらは毎日遊んで暮らしているようにしか思えなかった。ことさら、浪人をしている自分は、大学生という存在には少なからず劣等感のようなものを抱いていた。見聞きしたことのない大学であろうと、大学生には変わりはない。僕は、堤防の先端近くまで歩いて行き、キャスティングを始めた。しかし…、キャスティングを始めて間もなく、アザラシの1人がサーフボードに抱きついたまま海に飛び込むのが、視界の片隅に見えたような気がした…。その日は強い向かい風で、仕掛けを投げるのに苦労した。玉子ウキは、拳(こぶし)を一回り小さくしたほどの大きさで空気抵抗も大きく、風で押し戻されてしまうのだ。潮流は南から北方向へ速め、つまり僕の立ち位置からは右から左向きで、堤防間際の波の巻き返しもきつかった。うかうか堤防近くまでリトリーブしていると、玉子ウキが波にもまれてしまうほどだ。はっきり言って、こんな状態ではルアーはおろか、活餌(いきえさ)を投じたとて釣りにはなるまい。僕は5分も経たないうちに苛立ち始めた。と同時に、気まぐれでここに来たことを後悔し始めた。僕は、アマゾンを足もとに寝かせて、2本目の煙草に火を点けた。やるせなく煙を吐き出しながら、「早々に引き上げるか…」そう思い始めたとき、ふと、防波堤に砕け散る波の音に混じって、「タスケテクレ」という呻き声が聞こえた…。ような、気がしたのである。あらためて背後を振り向いてみても、その堤防には僕1人しかいなかった。対岸の堤防に目を遣ると、アザラシは2人しか見えなかった。何となく、厭な予感がした…。恐る恐る…足下の海面を見おろすと、果たして、そこに黒いアザラシが1人いた…。僕は、何も聞こえなかったふりをして、「そんなところに来られると、(釣りの)邪魔なんだよ!」そう、吐き捨てた。そして僕は、そのアザラシの闖入を無視して、釣りに専念しようとした。しかし、海面に漂う黒い生きものの視線と僕のそれとが再び交錯したとき、またしても「タスケテクレ」と、かすかに聞えてきた。僕は思った。「もしかして…、溺れているのか?」 「だとしたら…、厄介なことになったな…」僕は、虚を突かれ困惑した。対処の仕方のわからない不測事態だと思った。しかし、なぜか僕は、目前の事態を素直に認められなかった。というより、認めたくなかった、と言った方が正しいだろう。正直なところ、僕は、「厄介なことに巻き込まれるのは御免だ!」そう思っていた。「おい、悪ふざけしてんじゃねえよ!この野郎…」赤いワゴンへの憤りは消えていたわけではなかった。「サーファーがどうなろうと僕の知ったことか!」即座に、そういう思いも脳裏をよぎった。しかし、それと同時に、「もし、こいつが、本当に溺れて助けを求めているのだとしたら…、僕はいったいどうしたらいいのだろう?」そんなことも考えていた。初夏の頃とはいえ、外気は想像以上に冷え込んでいた。僕は厚手のドカジャンを着込んでいたが、それを脱いで海に飛び込むなど自殺行為だ。実際、僕は、ほとんど泳げなかった。と言うよりうねりの強い外房の海では、全く泳げないと言った方が正しいだろう。「海に飛び込むわけにはいかない。ならば、どうしたらいい?」僕の思考回路は混乱した。もともと僕は、常日頃から「直情径行」より「沈思黙考」を心掛けていた。それまでに何度も、衝動買いや思いつきの行動が決して良い結果をもたらさないということを経験的に知っていたからである。果たして、僕は、目前の事態にどう対処すべきかということより、どうしたらこのアザラシ野郎との関わりを断ち切れるだろうか…などと考え始めていた。「こんなウネリの強い日に、海に入ってる方が悪いんだな!」僕は、ひとまずそう結論づけ、内心もう少し(真偽を)観察してやれと思った。端から、直感的に「何かおかしい、何となく不自然な気がする」、そんなふうに思えてならなかったのである。しかし、僕がそんなことを考えている間にも、外房の荒波は容赦なくアザラシの頭を叩きつけていた。突堤周りの水深は5メートルくらいしかないはずだが、海面は、波がうねるたびに2メートル近くも上下していた。溺れた?アザラシは、突堤のすぐ近くに漂っていたが、あいにく突堤の周りにはしがみつけるような消波ブロック、いわゆるテトラポットなども見当たらなかった。アザラシはなぜだかずっと僕の方を向いていて、海面が上下するたびに、頭(顔)が見え隠れしていたが、不思議と喘ぎ(あえぎ)らしきものが認められなかった。溺れかけた者の喘ぎ、つまり、切迫感とか悲壮感とか、そういった鬼気迫るものが…、少なくとも僕には感じられなかったのである。僕は、あらためて不審に思った。「こいつ、本当は溺れてなんかいないのでは?」「ドッキリカメラみたいに、溺れたふりをしたら人がどういう反応をするのか、からかってるんじゃなかろうか?」「もし、そうだとしたら…、近くに仲間?がいて僕の様子を観察しているのでは?」僕は、思い出したように、対岸のさっきアザラシたちがいた辺りを見遣った。そこには残り2人の黒い姿が見えた。「仲間とは別行動みたいだな…」僕は、さらに違った疑惑の目で、目前のアザラシの様子を穿った。そいつは、よくよく見ると坊主刈りで、どことなく貧相だった。とても、荒海の中を河童のように泳げるとは思えない風体だ。「ん…、でも、こいつの顔、どこかで見たような…」僕はアタマの中の記憶を辿って行った。「そもそも、溺れるサーファーなんているものだろうか?サーフボードにしがみつけば、溺れっこないだろうに…」しかし、アザラシの近くにサーフボードは見当たらなかった。「こいつ、サーファーなのにパワーコードなしか?」「ボードが流されちゃって…、溺れたってことか…」僕の抱いた猜疑心は、徐々に瓦解して行った。しかし…、再びそのアザラシと目が合ったとき、なぜかその目が笑っているように思えたのである。それで…、僕の脳裏に閃くものがあった。「あ、思い出した…。こいつ、もしかして…昔のK夫じゃ?」それから溯ることさらに十数年前、僕たち家族は父親の仕事の都合で、東京からI町に越して来たのだった。東京オリンピック開催の数年前のことである。僕たち家族が移り住んだ家は、I町のずっとはずれの海の近くで、家のすぐ近くまで防砂林の松が迫ってきていた。防砂林の松は数メートルほどの小高い丘の上に群生していたが、幼い目線からはずいぶんな高さに思えた。秋を過ぎる頃には、丘の斜面に松の枯葉がたくさん落ちて、その上を歩くとつるつると滑った。誰が考え出したか知らないが、僕たち悪ガキは、廃材のベニヤ板や段ボールを見つけては丘の斜面で葺滑り(かやすべり)をして遊んだものである。また、この防砂林の小高い丘には旧日本軍の砲塁跡が残っていた。その砲塁跡は頑丈なコンクリートで出来ていて、大砲が撤去された跡は空っぽだった。僕たちは、その中に段ボールを持ち込んでは、「陣地」や「隠れ家」にして遊んだりした。つまり、防砂林の松林一帯は大人から干渉されることもなく、幼少の僕たちにとっては恰好の遊び場だったのである。そんな松林のはずれに、ひどく粗末な暮らしの家があった。いわゆる長屋の六畳一間に親子5人家族といった生活ぶりだったが、その家の長男がK夫だった。K夫とは名前であり、なぜか苗字は覚えていない。K夫は、僕より5歳くらいは年上だったと思う。都会育ちの僕にとって、K夫は、野山でのいろいろな(悪い)遊びを教えてくれる兄貴分だった。もっとも、幼少の僕にとっては、何が悪で何が善かなどわからなかったのだが…。ただ、よく覚えているのは、ことあるたびに、母親から「K夫くんとはあまり遊ばないように」と言われ続けていたことだ。K夫は、いつも、おやつを買う小遣いを持っていなかった。にもかかわらず、いつも腹をすかしていた。そのため、遊びがてら、おやつ代わりになる「食物」を探して歩くことが多かった。山ぶどうや野イチゴ、食べられる木の実、湿地帯に生えている葦?の茎、砂浜に咲く浜昼顔の甘い蜜、などなど、あちこちK夫に連れて行かれては、食べたり飲んだりするのに付き合わされた。僕は、それを母親に話すたびにこっぴどく叱られた…。また、その頃K夫は、いつも坊主刈りだった。生活が貧しいため床屋には行けず、ときどき父親がバリカンで刈っていたのである。僕は、あらためて、溺れた?アザラシに目を遣った。「こいつも坊主刈だな…」僕は、さらに記憶をたぐっていった。夏休みには、よくK夫とI川の下流へ水遊びに行った。僕たち子供は、海よりもずっと安全な川へ行くことが多かったように思う。今では見る影もないが、僕の幼少期、つまり昭和30年代後半頃、I川の下流域の河岸あたりはそこそこ観光客で賑っていた。その頃はちょうど高度経済成長期で、川の水は加速度的に汚くなりつつあったが、まだまだハゼやイナがよく釣れていた。河岸には、観光客目当ての船宿や釣り餌店などが軒を連ねていたほどである。また、そればかりではなく、河岸にはミニ商店街のような形態があった。旅館を始め、パン屋・雑貨屋・酒屋・八百屋・魚屋などもあった。さらに、I川の下流域には都内の金持たちの別荘地が乱立し、夏場その別荘で過ごす人たちは、海が荒れているときなどは川へ遊びに来ていた。それゆえ、夏場だけではあるが、川の下流域には海の家ならぬ川の家?がいくつか立ち並び、ちゃんと監視員もいた。川岸から10メートルほど沖には飛び込み台のような「やぐら」があり、ほとんど泳げなかった僕は「犬掻き」で川岸とそこを往復したりして遊んだものである。「K夫はたしか、平泳ぎが得意だったような気がする。もし、こいつがK夫だとしたら、泳ぎは達者なはずだが…」実は、僕はその後のK夫の消息を知らなかった。僕たち家族は、東京からI町に越してから5年近く住み、それからさらに隣町へ小引っ越ししたからである。都合、僕は小学校3年のときにI町から転校となり、その後K夫と遇うことはなくなった。そして、さらに年月が流れ、僕が中学に上がってからI町へ行ったりしても、やはりK夫を見かけることはなかった。ごく稀にK夫のことを思い出すことはあっても、そのたび、母親から何度も繰り返し言われていた「K夫くんとはあまり遊ばないように」という言葉が同時に去来してきた。そうして、やがて僕にとってK夫(という存在)は、なぜか思い出したくない過去、幼少期の恥部の象徴のように思えるようになっていったのだ。非情な言い方をすれば…、「敢えて一生遇わなくてもいい、遇わない方がいい」とさえ思うようになっていった。それが…、成長するにつれて、いつの間にかK夫という存在そのものが、僕の記憶の片隅に埋もれてしまったのだろう。その、K夫とおぼしき輩が、突然僕の目の前に現れたかもしれないのだ。「どうも、あいつはK夫のように思えてならない…。泳ぎの達者なK夫が、溺れた真似をして僕をからかっている…」僕は、なぜかそんなふうに考えた。 「おい、K夫!何でこんなところにいるんだよ!何を笑っている?」僕はもう、そのアザラシを、かつてのK夫と決めつけてしまっていた。 『よお、ずいぶん久しぶりだな。』 「だから、何だ?」 『高校も卒業したのに、働きもせずに親のスネかじりながら、呑気に浪人生活かい?』 「おまえの知ったことか!」 『ほ~、お大尽は違うんだねえ。浪人の分際で、こんなところでいったい何やってんだ?』 「おまえには関係ねえだろ!」 『ふ~ん。ところで…、おまえは冷たいヤツだな。目の前に助けを求めてる人がいるのに、見てみぬふりかい?』 「だまされてたまるかっ!おまえは泳げるだろう?」 『溺れてるから、助けてくれって言ってんだ!そんなこともわからねえのか?この野郎!』 「何だとっ!」僕は、急に腹が立ってきた。しかし、アザラシは、再び、「タスケテクレ」と呻いた。僕は、妄想から我にかえった。「本当に…溺れてるのか?」「昔の…、K夫じゃないのか?」僕は無意識のうちに、手にしていたアマゾン(釣竿)をアザラシに差しのべていた。しかし、アザラシがアマゾンの穂先にしがみつくと、穂先はあっけなく抜けてしまった。僕は動転していて、差し伸べたのが 継ぎ竿 だったことに気づかなかったのだ。アザラシは、もんどりうったように一度海中に沈み、また浮き上がってきた。今度はアザラシの方が、「俺をからかってるのか?」といわんばかりの、鋭い視線を僕に向けてきた。僕は、道糸をたぐって穂先を回収し、今度はかなりきつめに穂先を差込み、もう一度試してみることにした。「強く引っ張ると抜けちゃうから、つかまるだけにしてください!」そう、大声でアザラシに向かって叫んだのだが、波の音にかき消されて、アザラシには聞えないらしかった。そして…、溺れたアザラシは、さっきと同じように差し出された穂先に飛びつき、同じように穂先はあえなく抜けてしまった。アザラシは、さっきよりも強い視線で、「やっぱり、からかってんのか?」と言わんばかりだ。僕はもう、並継ぎの釣竿を差し伸べても無駄だと思った。「これじゃまるで、助けるどころか、溺れた人をいたぶってるみたいじゃないか…」僕は途方にくれかけた。映画やテレビなら、近くに都合よくロープや木材などが転がっているものだが…、辺りを見廻しても、そんなものは何ひとつ見当たらない…。 『おい、からかうのもたいがいにしろよ…、先っぽの抜ける竿なんか寄越しやがって、俺を殺す気か?』 「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!こっちだって精一杯やってんだよ!」僕は、いつの間にか、また妄想の世界に入り込んでいた。 『おまえには、水に飛び込んででも(俺を)助けようという気はねえのか?』 「ないね!」 「そんな義理もない!」 『へえ~、ガキの頃さんざん俺に世話になっておきながら…、大人になったらその態度かえ?』 「………」 『そうかい…そうかい、今度遇ったら…、覚えてろよ…』僕は、また、我にかえった。眼の前には、相変わらず無言のアザラシが、波にアタマを打ち付けられながらプカプカしている。僕は再び途方にくれかけた。対岸の堤防を見ると、そこには、こちらの事態に全く気付いていないであろう、仲間のアザラシ2人がいた。僕は思った。「仲間同士で解決すりゃいいんじゃないか!」僕はそのときになって、やっと、そんな(単純な)ことに気付いたのだった。「オーイ!おまえらの仲間の様子がおかしいぞ~!」声を限りに叫んでみたが、対岸の堤防まで聞こえるはずもなかった。川幅は100メートルくらい、いや、もっとあるだろう。僕は両手を大きく振ったり、ぐるぐると腕を回したりして、仲間のアザラシが気付いてくれるのを待った。そうして…、何度めかに手を振ったとき、彼らはようやく事態を悟ったらしかった。2人とも海に飛び込み、こちらへ向かって泳いで来るのが見えた。「これで何とかなるだろう…」僕は、なかば安堵した。とはいえ、僕は、目の前にいる溺れたアザラシには、もう何もしてやることが出来ずにいた。「もうじき助けが来ますよ!!」溺れたアザラシに向かって、そう怒鳴ったが、やはり波の音にかき消されてか、そいつには聞こえないらしかった。しかし…その直後、溺れたアザラシは、「モウ、オマエニハ、タノマナイ」とでも言っているような、訴えるような、哀しそうな目で僕を見た。そして、不意に、その黒い体が堤防近くから沖の方へ離れて行ったのだ!僕の心には再び疑惑の雲が拡がった。「溺れてたんじゃないのか?!」「やっぱり、泳げるんじゃ?」溺れたアザラシは、まるでそれが予定の行動ででもあったかのように巧みに潮の流れに乗り、突堤から数十メートル北側の浅瀬に流されて行った。そして、そこへ、仲間のアザラシたちが助けに行ったのだった。「生きてるか~?」「かなり水を飲んでいるようだ!」「大丈夫か?しっかりしろ!!」そんな、仲間のアザラシたちの悲鳴がかすかに聞こえてきた。浅瀬に流れ着いたアザラシは、ぐったりとして見えた。僕は、自分にのしかかっていた責任のようなものから解き放たれて、内心ほっとした。が、それもつかの間、今度は「良心の呵責」という鋭い刃が背中に突きつけられているような気がしてきた。端から見れば、僕が救援を呼んだおかげで、溺れたアザラシは大事には至らなかったようにも思える。しかし、実際はそうではなかった。僕は妄執にとりつかれ、ともすればそいつを見殺しにさえしかねなかったのだ…。そもそも僕は、自らの生命を危うくしてまで他人を救うつもりなどなかった。ましてや…、それがサーファーであっただけに…。そのアザラシは、本当に溺れて助けを求めていたのかもしれない。でも、結局僕は、最後までその一部始終を信用出来なかった。溺れて?いたのがサーファーの体(てい)であったことが、まず僕を疑心暗鬼にさせた。そして、そいつが昔のK夫かもしれない…という複雑な思いが、僕の思考を撹乱したのだ。妄想から我に返り、手にしていた釣竿を差し出して助けようとしたのは、僕の良心のかけらがそうさせたのかもしれない。しかし、それはあくまで成り行きでしたことであり、仲間のアザラシに(非常事態を)知らせたのも、やはり、必然性に迫られてのことだ。つまり、僕のしたことは傍目には人命救助もどき、実際は(緊急避難的)責任回避でしかなかったのではなかろうか?正直なところ、そいつがK夫であろうとなかろうと、僕の心の深層には「サーファーがどうなろうと知ったことか!」という思いがあったのだ。しかし、僕の中の良心の本質のようなものが「人の道として、本来そうあってはならぬ…」と僕を攻め立ててきたのかもしれない。そういった心情的な葛藤や罪悪感のようなものが昂じて、僕は激しい自己嫌悪とうしろめたさにとらわれ始めた。そして、僕は、またしても妄想の世界に引きずり込まれた。しかし、今度のは、現実と妄想とが入り混じっていた。流れ着いたアザラシは、仲間のアザラシたちに向かって、 「あそこ(堤防)にいるあいつは、はじめ、俺を無視して見殺しにしようとしたんだ!」と告げるのだ…。さらに、 「俺があっぷあっぷしてるのに、何だかおっかない顔して、全然助けてくれようとはしなかった…」 「そのうち、釣竿を差し出してきたが、先っぽが抜けちゃうんだよ。あれ、抜けるとわかってて、わざと寄越したんじゃねえかな?」そして、それを聞いた仲間のアザラシは、「本当にそうなのか?」と僕に詰め寄って来るかもしれない。僕は、妄想と現実との狭間に追い詰められ、なぜだか言い知れぬ恐怖感に襲われた。「いつまでもここにいてはまずい。あいつが何か僕の悪口を言う前にこの場を去らなければ…」僕は、慌てて帰り仕度をした。もはや、釣りどころではなかった。そして、僕は努めて平静を装い、アザラシたちの近くをバイクで通り過ぎようとした。しかし、そのとき、仲間のアザラシの1人が僕に向かって、「ありがとうございました~!」と叫び、ぺこりとアタマを下げた。僕の中で、急に、何か得体のしれぬ「どす黒い汚いもの」が堰を切ったように溢れ出したような気がした。「違う…」僕は、いたたまれなくなり、やにわにスロットルを開けた…。サイドミラーに映る3つの黒い姿が小さく見えなくなるのに、そう時間はかからなかった。そんな出来事があってからしばらく…、というより何年もの間、僕はその河口に近寄ることはなかった。そのときのアザラシたちに出くわしたくなかったこともあるが、そこへ行くと、また同じような目に遭うのではないか?という気がしてならなかったのである。ちなみに、その後もずっとK夫の消息は不明のままである。すべからく、あのとき溺れていたアザラシが旧知のK夫だったのか、それとも見ず知らずのサーファーだったのかどうかも不明のままだった。しかしその後、僕は、そんなことはもうどうでもいいこと…と割り切ることにした。そして、さらに月日が経つにつれ、そんな出来事自体が記憶の中で風化して行き、僕はK夫のことを思い出すことすらなくなったのである。そんな、昔の厭な記憶を反芻しているうちに、CBはT岬灯台入口の信号にさしかかった。その信号を左折すれば、ほんの数分でE川河口に着くだろう。僕は、ヘルメットの中で、ふと思った。「いや、ちょっと待てよ…、ここで左折すると、また何か(厭なことに)遭うかもしれないな…」「よりによって、忘れていたことを思い出しちゃったしな…」僕は、そのままT岬灯台入口信号を通過することにした。信号を過ぎ、しばらく走るとE川にかかる橋だ。ここの橋は、以前は古めかしい橋だったが、今ではずいぶん立派で近代的な橋に出世?している。僕は、一気にK市あたりまで走ってしまおうかとも思ったが、ふと、何となく河口の様子を見てみたい…、そんな衝動にかられた。E川の橋を渡って、2つめの信号を左に入るとE川河口の「南岸」に出られるのだ。E川河口の「南岸」には海洋施設や国民宿舎などがあり、わりと拓けている…。僕は、気まぐれで、そこを左折してみることにした。E川河口「南岸」の防波堤の脇には広大な空き地があり、訪れるクルマはそこを駐車場代わりに利用していた。しかし、そこは通常、釣り人よりサーファーの溜まり場となっていた。僕がE川河口を訪れるときは「北岸」がほとんどで、「南岸」にあまり近づかなかったのは、そこがサーファーの溜まり場だからでもある。というのも、そもそも僕は、サーファー(という人種?)を快く思っていなかったのだ。遊泳禁止区域の海岸では、釣り人とサーファーとの間で(場所取り)の確執が生じることがしばしばある。海は皆のもの、公共のものなのだから、紳士的に先着順に場所を利用すればよい…、それだけのことなのだが、なぜかそれが出来ない。釣り人は、サーファーが先に海に入っていれば、その場所では釣りにならないので敬遠して他へ移動するが、サーファーは先に釣り人が仕掛けを投げ込んでいても平気で割り込んでくる。それも、岸からではなく沖の方から徐々に割り込んでくるから始末が悪い。沖の方で、サーフボードでプカプカやられたら、釣り人は仕掛けを投入できなくなってしまうからだ。すべてのサーファーがそうとは言えないが、得てしてそういったモラルの欠落した輩たちをよく見かける。それどころか、僕は、かつて思いもよらないことに遭遇したことがあった。ある日僕は、I海岸の防砂林の近くに車を置き砂浜までイシモチ釣りに行ったのだが、まったく釣れる気配がないので、違うポイントへ移動しようと早々に車へと戻ってきた。すると、僕の車の近くに1人のサーファーがいて、そいつは砂だらけ海水まみれのウェットスーツを、わざわざ僕の車のボンネットの上に載せて乾かしていたのだ!すぐ近くにサーファー自身の車があるのに、自分の車が汚れるからと他人の車に載せていたということらしい。釣人ならしばらくは車に戻ってこないはずだと高(たか)をくくっていたのだろう。その輩は、驚いた様子であわててウェットをどかしたが、特に謝りもしなかった。近くには仲間のサーファーが何人かいて、多勢に無勢である。僕は、それを蔑みの目線で一瞥するくらいしかできなかった…。その場所では、それまで幾度となく、車に戻ってみるとボンネットが汚れていたことがあったが、僕は野良猫でも乗っかったのだろうと思っていた。しかし犯人は、非常識なサーファーだったというわけだ。それ以来僕は、サーファーらしき車の近くには駐車しないことにしている。車を汚されるだけならまだしも、どこかぶつけられてもきっちり逃げられてしまうだろう。つまり、常日頃から僕は、海で遭遇するサーファーに対しては、敵対心や警戒心が強かったのである。国民宿舎の脇を抜けて行き止まりの「南岸」に出てみると、果たして十数台のサーファーの車があり、何人かサーファーがうろうろしていた。「やっぱり、昔と変わらねえな…」もしや…という思いで先刻の赤いワゴンを探してみたが、それらしき車は見当たらなかった。僕はCBに乗ったまま、サーファーの溜まり場を避けるようにして、川の護岸堤間際まで行ってみた。そこから対岸、つまり「北岸」をヘルメットの中から何気なく見渡してみる。もし先刻、T岬灯台入口信号を左折していたら…、今頃僕は、その「北岸」にいたはずだ…。対岸から見ても「北岸」の風景は昔とほとんど変わっていなかった。施設も建物も何もなく、ある意味荒れたままだ…。よくよく見ると、「北岸」の堤防の中ほどにバイクが1台あり、突堤には1人で釣りをしている人の姿があった。そのバイクは、形からしてスーパーカブのようだ…。僕のいる位置から「北岸」の突堤あたりまでは100メートルくらいだろうか、釣り人の姿かたちは視認できるのだが、なぜか顔までは識別できなかった。背丈は中肉中背で、Gパンにドカジャン、咥えタバコで投げ竿を振っている…。僕はヘルメットの中から何気なくその釣り人の姿を眺めていたが、心なしか背筋に冷たいものを感じた。すると…、僕のいる位置から50メートルくらい離れたあたりにたむろしていたサーファーのうちの1人が、サーフボードを抱えるように海に飛込むのが見えた。そいつは、坊主アタマだった…。僕の背筋はさらに冷たくなってきた。「おいおい、バイクこそ違うが…、これじゃまるで、ドッペルじゃないか…」僕は、踵を返すようにその場から離れた。「桑原、桑原」僕とCBは国道128号に戻り、そのまま帰路についた。道すがら…、思った。「まだまだ(あの河口には)近寄らないほうがいいかもしれないな…。まるで…僕に、来るなと言わんばかりだ…」CBを飛ばしながら腕時計を覗き込むと、まだ午前6時前だった。国道ですれ違う他県ナンバーの車の数は、そこそこ増えてきていた。おそらくは、これからGWの1日を南房総のどこかで過ごそうという人たちなのだろう。片や僕は、朝っぱらから何かおぞましいものでも見てしまったような、忸怩(じくじ)たる思いを胸に家路を急いでいた。なんだか妙に疲れて、徹夜明けの眠気がどっと噴出してきたような感じだった。ゆっくり走っていると、走りながら居眠りしてしまいそうなほどだ。よく、「バイクなら居眠り運転などあり得ない」と言う人がいるが、それは間違いである。というのも、僕には実際に経験があったからだ…。昨年の夏、ゼミ仲間と尾瀬に行ったときのことである。都内と千葉に散らばって住むゼミの仲間たちは、一度下高井戸に集まり、車に分乗して国道20号から環八を抜け国道17号に向かう予定だった。しかし、仙川に住むRZ250のヤツが突然、尾瀬よりも北海道一周に行って来ると言い出したため、結局僕だけバイクで行くことになった。ちなみに、そのときの行程は、都内を23時頃出て国道17号をひた走り夜明け前には「鳩待峠」に到着、といった強行軍だった。深夜の17号線の信号待ちは長く、青に替わるのに1分近くかかることもあった。確か前橋あたりだったと思うが、僕の疲労と眠気は極限近くまできており、信号待ちで目を瞑った途端、20~30秒近く眠りこけてしまったのだ。僕のすぐ後ろ(の信号待ち)は仲間の車だったので危ない目には遭わずに済んだが、ほんのわずかな間とはいえ、バイクのハンドルを持ったまま完全に眠ってしまったのには自分でも驚いた。「あのときはきつかったなぁ。ずっと雨で、カッパを着てたっけ…」そんなことをぼんやり思い返してるうちに、I町のはずれの信号待ちに引っかかった。そこは変則五差路で、すべからく信号の替わりが長い…。「それにしても…、眠いなぁ…」そう思った瞬間…、僕は、すうっと意識がなくなってしまった。授業中や電車の中で居眠りすると、首ががくっときて目が覚めたりするものだが、そのときも同じだった。しかし、目が覚めてみると、そこは学校でも電車の中でもなかった。僕は、堤防の上にぺたりと座り込み、投げ竿を持っていた。一瞬、「何でこんなところにいるんだっけ?」と思ったが、すぐに思い出した。今日、僕は、朝まずめの上げ(潮)狙いで、E川の河口にイシモチを釣りに来ていたのだ。餌店が開くにはまだ朝が早すぎるので、餌は「塩イソメ」を持ってきた。この塩イソメとは、昨年秋に使ったアカイソメの残りを塩漬けにして冷蔵庫に入れておいたものだ。もっとも、こんな餌では活餌にくらべて釣れる確率がかなり下がるが、ないよりはましである。僕は、目覚めの一服…とばかりに、ショートホープに火を点けた。それにしても、どれくらい居眠りしていたのかわかったものではない…。僕は、ひとまず、沖に投げ込んでおいた仕掛けを手繰り寄せてみることにした。しかし、魚は食いついてはいなかった。餌は鈎に巻きついたままで、しかも少し溶け始めていた。「やっぱり、こんな餌じゃ喰うわけねえよな…」僕は、餌を取り替えて、軽く沖まで一振りした。ふと、背中に視線を感じて対岸に目を遣ると、青色のバイク(に乗った人)がずっとこちらを見ている。「ん?何だろう…」僕は、居眠りしていたせいか、喉の渇きを感じた。「あ、そういえば今日も缶コーヒー買っといたっけ…」僕は、E川の河口に来るときはいつも、信号を曲がってすぐの自販機で缶コーヒーを買うことにしていた。ちなみに、釣りのとき飲みたくなるのは、暑かろうが寒かろうが決まってマックスコーヒーだ。味的には、ポッカのショート缶の方が好みだが、近くにポッカの自販機はなかった。僕は、道すがら買っておいたマックスコーヒーを取りに、堤防の中ほどに停めたバイクまで戻った。今日、僕は、ふだん父親がチョイ乗りで使っているスーパーカブで来ていた。CB400Nはちょうど車検で、昨日隣町のモータースに出したばかりだった。バイクの車検とはいえ1日~2日かかると言われた。僕は、もう一度対岸のバイクの方を見てみた。青いバイクの主は、まだ、訝るようにこちらの方を見ている。「なんだ、あいつ…、俺に何か用か?」僕は、マックスを飲みながら置き竿の方(堤防の先端)に戻り始めたが…、視界の片隅に何かが動くのが見えた、ような気がした。あらためて目を遣ると、対岸の堤防の先端あたりから、サーファーの1人がボードに抱きつくようにして海に入って行くのが見えた。すると…、その直後、青いバイク(の主)は、何を思ったか急に向きを変えて走り去って行った。「んんん?何なんだ、あいつ…?」と、思いながら…、僕は、何となく厭な予感がしてきた。何かとてつもないものが、僕の背後のすぐ近くまで迫ってきている…、そんな気がしてきた。僕は、置き竿を手に取り、大急ぎでリールの道糸を巻き取るとそのまま帰り支度をした。そして、バイクまで走って戻り、やはり大急ぎでバイクに飛び乗った。それから後、何か起きたのか、何も起きなかったのか、僕は知らない…。というのも、僕は、うしろをいっさい振り向かないようにしてI川河口を後にしたからだ。僕とスーパーカブは、国道128号に戻った。原付の制限速度は30キロだが…、気がつくと50~60キロくらいで走っていた。「う~ん、この際、(成るが)ままよ!」そう思って、僕はさらにスロットルを開けた。スーパーカブを飛ばしながら腕時計を覗き込むと、まだ午前6時前だった。国道ですれ違う他県ナンバーのクルマの数は、そこそこ増えてきていた。おそらくは、日曜日の今日を南房総のどこかで過ごそうという人たちなのだろう。片や僕は、朝っぱらから何だか妙に疲れきってしまっていた。何か、目には見えない恐ろしいものから命からがら逃げ出してきた…、そんな感覚だった。土曜の夜から深夜ラジオに聴き入った挙句、一睡もしないまま釣りになど出かけてきてしまったが、何だか急に眠気がどっと噴出してきたような感じだった。ゆっくり走っていると、走りながら居眠りしてしまいそうなほどだ。僕は、ヘルメットの中で呟いた。「それにしても…、眠いなぁ…」僕は、必死で眠気をこらえながら、家路を急いだ。しかし、I町のはずれの信号まであと数十メートルというところで信号が黄色に変わってしまった。いつも、ここを通りかかるとき、青信号だったためしがない…。この交差点は、変則五差路なので信号の数が1つ多いのである。そのため、信号の替わりが長い…。「いやぁ眠い…」そう思った瞬間、僕は、すうっと吸い込まれるように意識がなくなってしまった…。僕は…、首ががくっとなるどころか、上半身全体に電気ショックを受けたような勢いで目が覚めた。そこは、僕の部屋の、机の上だった。ゼミ合宿の課題レポートを一晩で書き上げてしまうつもりでいたのだが、不覚にも机に突っ伏して眠りこけてしまったらしい。僕は、目覚めの一服…とばかりに、タバコに火を点けた。東向きの窓を開けてみると、そこには、 ごくありふれた朝の風景 があった…。(了)あとがき補足を加えますが、冒頭に記したようにこれはあくまでもフィクションです。本編は、現在の僕と過去の僕(の回想)との二部から構成されています。時代背景は昭和の終わり近くで、つまり主人公の僕は、昭和50年代後半頃のことを語っているわけです。では、なぜ平成23年にもなる今になって昭和のことを語るのかというと、その頃(昭和57年)に起稿して、つい先日に脱稿したからです。と言うとずいぶん聞こえがよいですが、実際は、草案が出来上がったものの、その後いっこうに筆が進まず、不覚にも足かけ30年近く脱稿できずにいたということなのです。もともとの草案はシリアスな問題提起的型で、簡単に言えば「あなたな~ら、どうする?♪」といった内容のものでした。都合、私は今まで何度か加筆を試みましたが、そのたびに頓挫しました。シリアスに話しを展開すればするほど筆は進みませんでした。しかし、最近になってやっと「問題提起や内省を突き詰めたとて所詮結論など出やしない」ということに気付きました。そこで私は、シリアスに話を展開するよりも、むしろ諧謔的な話の展開を加えて面白おかしい読み物として成稿することにしたのです。なお、本編中、随所に古い単語や物(商品)の名前・専門用語等が出てきますが、敢えて注釈を書きませんので、興味のある方はご自身で調べてみてください。(2011年8月22日:改訂) PR Comment0 Comment Comment Form お名前name タイトルtitle メールアドレスmail address URLurl コメントcomment パスワードpassword